8.脱原発依存が出来ない理由を探っていくと、もともと原発が日本に導入された経緯を考えざるを得なくなります。原子力が世界に広まるきっかけになったのは1953年のAtoms for Peaceというアメリカ政府による原子力の平和利用宣言です。原子力を戦争のために使うのではなく平和のために使おうという呼びかけですが、現実はそうではなく、当時のソ連とアメリカの対立にその理由がありました。1953年当時、ソ連は相当数の核爆弾を保有していました。それに対抗するアメリカは当時まだ大陸間弾道ミサイルを開発できていなかったため、ソ連の核基地を直接攻撃できない状況だったのです。そのため、ヨーロッパ各国に核武装をさせる必要がありました。しかし、直接核技術をフランスなどへ渡すわけにいかなかったので平和利用を装って核技術の供与をしたのです。これが原子力の平和利用宣言の実態でした。更に、原子力平和利用は、原爆兵器保有とともに発生するウラン鉱山でのウラン残渣の発生や使用済み核燃料の処分の問題を原子力発電所のためのウラン採掘や核燃料関連の問題とすり替えてしまう狙いもあったはずです。原子力発電が行われていなければ、原発保有に伴うこれらの問題は米国内でより大きな反原爆運動を引き起こしていたはずだからです。日本への原発導入は中曽根康弘がAtoms for Peace宣言の数か月前、ヘンリー・キッシンジャー主催のセミナーへ参加したことがきっかけです。このセミナーで原子力を勧められアメリカの原子力施設を見学しています。この翌年の1954年、第五福竜丸事件(ビキニ環礁での水爆実験の死の灰を第5福竜丸が浴びた事件)とほぼ同時に、中曽根康弘らが中心となり原子炉築造費を含めた研究予算要求を国会へ提出し、認められます。第五福竜丸事件が契機となり全国的に原水爆禁止運動が拡大しますが、「第五福竜丸の被爆を矮小化するために、4月22日の時点で米国の国家安全保障会議作戦調整委員会 (OCB) は『水爆や関連する開発への日本人の好ましくない態度を相殺するための米政府の行動リスト』を起草し、科学的対策として『日本人患者の発病の原因は、放射能よりもむしろサンゴの塵の化学的影響とする』と明記し、『放射線の影響を受けた日本の漁師が死んだ場合、日米合同の病理解剖や死因についての共同声明の発表の準備も含め、非常事態対策案を練る』と決めていた。実際、同年9月に久保山無線長が死亡した際に、日本人医師団は死因を『放射能症』と発表したが、米国は現在まで『放射線が直接の原因ではない』との見解を取り続けている」のです。(この部分は、http://ja.wikipedia.org/wiki/第五福竜丸 から引用)中曽根康弘とともに読売新聞社主の正力松太郎などが中心となり、日本への原発導入が進められます。日本は当然原爆を保有しませんから、原爆保有に伴う問題を覆い隠すために原発が導入されたわけではありません。太平洋戦争終了後、戦勝国であるアメリカは敗戦国である日本を二度と戦争のできない三流国家にしようとしていたと言われます。ところが、ソ連、中国、北朝鮮、ベトナムと続く共産化の波を受けて日本を優遇し、資本主義の砦とする政策へ転換するのです。北朝鮮が成立したのが1948年、北朝鮮が韓国へ侵攻するのが1950年でそのための朝鮮戦争が1953年まで続きます。中国やソ連の支援を受けたベトナム共産党政権がフランスからの独立を求めた第1次インドシナ戦争が1946年から1954年です。これらのことがあったためにアメリカは日本優遇に舵を切りますが、当然単に優遇するほど甘いわけではなく、日本が共産化をしないように共産党を締め上げ、同時に財界を優遇し、財界などを通じて日本の富を吸い上げる仕組みを作っていました。国鉄三大ミステリー事件と言われる下川事件・松川事件・三鷹事件はどれも1949年に起こっています。これらは全て当時国内最大の共産主義勢力であった国鉄の労働組合つぶしを意図したものでした。
8.脱原発依存が出来ない理由を探っていくと、もともと原発が日本に導入された経緯を考えざるを得なくなります。原子力が世界に広まるきっかけになったのは1953年のAtoms for Peaceというアメリカ政府による原子力の平和利用宣言です。原子力を戦争のために使うのではなく平和のために使おうという呼びかけですが、現実はそうではなく、当時のソ連とアメリカの対立にその理由がありました。1953年当時、ソ連は相当数の核爆弾を保有していました。それに対抗するアメリカは当時まだ大陸間弾道ミサイルを開発できていなかったため、ソ連の核基地を直接攻撃できない状況だったのです。そのため、ヨーロッパ各国に核武装をさせる必要がありました。しかし、直接核技術をフランスなどへ渡すわけにいかなかったので平和利用を装って核技術の供与をしたのです。これが原子力の平和利用宣言の実態でした。更に、原子力平和利用は、原爆兵器保有とともに発生するウラン鉱山でのウラン残渣の発生や使用済み核燃料の処分の問題を原子力発電所のためのウラン採掘や核燃料関連の問題とすり替えてしまう狙いもあったはずです。原子力発電が行われていなければ、原発保有に伴うこれらの問題は米国内でより大きな反原爆運動を引き起こしていたはずだからです。日本への原発導入は中曽根康弘がAtoms for Peace宣言の数か月前、ヘンリー・キッシンジャー主催のセミナーへ参加したことがきっかけです。このセミナーで原子力を勧められアメリカの原子力施設を見学しています。この翌年の1954年、第五福竜丸事件(ビキニ環礁での水爆実験の死の灰を第5福竜丸が浴びた事件)とほぼ同時に、中曽根康弘らが中心となり原子炉築造費を含めた研究予算要求を国会へ提出し、認められます。第五福竜丸事件が契機となり全国的に原水爆禁止運動が拡大しますが、「第五福竜丸の被爆を矮小化するために、4月22日の時点で米国の国家安全保障会議作戦調整委員会 (OCB) は『水爆や関連する開発への日本人の好ましくない態度を相殺するための米政府の行動リスト』を起草し、科学的対策として『日本人患者の発病の原因は、放射能よりもむしろサンゴの塵の化学的影響とする』と明記し、『放射線の影響を受けた日本の漁師が死んだ場合、日米合同の病理解剖や死因についての共同声明の発表の準備も含め、非常事態対策案を練る』と決めていた。実際、同年9月に久保山無線長が死亡した際に、日本人医師団は死因を『放射能症』と発表したが、米国は現在まで『放射線が直接の原因ではない』との見解を取り続けている」のです。(この部分は、http://ja.wikipedia.org/wiki/第五福竜丸 から引用)中曽根康弘とともに読売新聞社主の正力松太郎などが中心となり、日本への原発導入が進められます。日本は当然原爆を保有しませんから、原爆保有に伴う問題を覆い隠すために原発が導入されたわけではありません。太平洋戦争終了後、戦勝国であるアメリカは敗戦国である日本を二度と戦争のできない三流国家にしようとしていたと言われます。ところが、ソ連、中国、北朝鮮、ベトナムと続く共産化の波を受けて日本を優遇し、資本主義の砦とする政策へ転換するのです。北朝鮮が成立したのが1948年、北朝鮮が韓国へ侵攻するのが1950年でそのための朝鮮戦争が1953年まで続きます。中国やソ連の支援を受けたベトナム共産党政権がフランスからの独立を求めた第1次インドシナ戦争が1946年から1954年です。これらのことがあったためにアメリカは日本優遇に舵を切りますが、当然単に優遇するほど甘いわけではなく、日本が共産化をしないように共産党を締め上げ、同時に財界を優遇し、財界などを通じて日本の富を吸い上げる仕組みを作っていました。国鉄三大ミステリー事件と言われる下川事件・松川事件・三鷹事件はどれも1949年に起こっています。これらは全て当時国内最大の共産主義勢力であった国鉄の労働組合つぶしを意図したものでした。