2011祈り153 2011年8月17日(水)
今日もほとんど外出はしなかった。いろいろインターネットや本でいろいろな記事を読んでいた。その中で二つ、印象に残った記事というか、考えさせられたものについて、少しだけ書いてみよう。
1.サンデー毎日8月21・28日合併号の40ページにサンデー時評というコラムがある。「望郷の念やみがたく福島に」というタイトルの岩見さんの文章だ。そこに、「本当に(原発の)安全神話を信じていたのか」と問われて答える自民党の長老議員の言葉が載っている。「いや、私たちは無知だった。専門の学者や官僚が『安全だ』と言うから、それを信じていただけだ。政治の側が確認する作業を怠っていた。いまから思うと起こるべくして起きた、と言うほかはない。」というものだ。そして、こう言うしかない現状を「第二の敗戦」と総括されている。そう、そうなんだと自分も思う。まさに、日本は原子力をめぐる戦争に負けたのだ。一種の情報戦であり、50年とか60年という時間をかけて仕掛けられている戦争に、またもや日本は負けてしまったと言っていい。そして、その敗戦の陰で一般市民は辛抱強く耐え忍んでいるのだ。望郷の念やみがたく福島に戻る人々はその背後に流浪するしかない今の日本社会の中での自分たちの立場を背負わされている。だめだ、と叫びたくなる。辛抱強く耐えるだけでは生きてはいけない世の中になってしまっているのだと言いたい。50年先100年先の大計を考えていかないと生き延びてはいけないと言いたくなる。
2.二つ目も同じサンデー毎日の記事だ。それは「昭和史の大河を往く」という連載ノンフィクションで、今週号は「もしアッツ島守備隊が玉砕の道を選ばなかったら」というものだ。そこに玉砕の実態をアメリカ側から述べた文章が載っている。一部引用符を省略して引用する。「ボロボロの服をつけ青ざめた形相の日本軍の将兵が、すでに誰もが負傷しているにもかかわらず、足をひきずり、膝をするようにゆっくり近づいてくる。我々アメリカ兵は身の毛をよだてた。アメリカ軍兵士は銃を射ちたくないので、拡声器で『降参せい、降参せい!』と叫んだが、誰も耳を貸さずにただひたすらアメリカ軍兵士のもとにはうようにしてむかってきた。」確かにこれが「玉砕」という美しい言葉の実態なのだろう。そして、こういった実態を「玉砕」という美しい言葉で包み込んでしまった軍部首脳たちとそれにまんまとだまされた一般市民。記事の中では玉砕を強いられた戦場の軍人が「投降」していたらとか、「玉砕は軍首脳の作戦ミスだ」と公言したらと言う「もし」が検討されている。しかし、自分は、戦場にいる軍人たちではなくて、当時の政治家や日本国内の言論人、または官僚たちが「玉砕」の実態を一般市民へ伝えるべきであったと思う。または、軍部に「玉砕」という表現を使わせるのをやめるべきだった。結局、こういった戦法がアメリカに原爆を使わせる口実を与えることになったのだから。
以上、かなり生意気な文章になってしまった。
明日は浜岡原発を見に行く予定だ。
*6月8日の記事「近づく戦争・テロ社会、これらの動きを止めるべきでは?」から一連番号を付しています。<<637>>
TC:36296, BC:124382, PC:?, Mc:?
今日もほとんど外出はしなかった。いろいろインターネットや本でいろいろな記事を読んでいた。その中で二つ、印象に残った記事というか、考えさせられたものについて、少しだけ書いてみよう。
1.サンデー毎日8月21・28日合併号の40ページにサンデー時評というコラムがある。「望郷の念やみがたく福島に」というタイトルの岩見さんの文章だ。そこに、「本当に(原発の)安全神話を信じていたのか」と問われて答える自民党の長老議員の言葉が載っている。「いや、私たちは無知だった。専門の学者や官僚が『安全だ』と言うから、それを信じていただけだ。政治の側が確認する作業を怠っていた。いまから思うと起こるべくして起きた、と言うほかはない。」というものだ。そして、こう言うしかない現状を「第二の敗戦」と総括されている。そう、そうなんだと自分も思う。まさに、日本は原子力をめぐる戦争に負けたのだ。一種の情報戦であり、50年とか60年という時間をかけて仕掛けられている戦争に、またもや日本は負けてしまったと言っていい。そして、その敗戦の陰で一般市民は辛抱強く耐え忍んでいるのだ。望郷の念やみがたく福島に戻る人々はその背後に流浪するしかない今の日本社会の中での自分たちの立場を背負わされている。だめだ、と叫びたくなる。辛抱強く耐えるだけでは生きてはいけない世の中になってしまっているのだと言いたい。50年先100年先の大計を考えていかないと生き延びてはいけないと言いたくなる。
2.二つ目も同じサンデー毎日の記事だ。それは「昭和史の大河を往く」という連載ノンフィクションで、今週号は「もしアッツ島守備隊が玉砕の道を選ばなかったら」というものだ。そこに玉砕の実態をアメリカ側から述べた文章が載っている。一部引用符を省略して引用する。「ボロボロの服をつけ青ざめた形相の日本軍の将兵が、すでに誰もが負傷しているにもかかわらず、足をひきずり、膝をするようにゆっくり近づいてくる。我々アメリカ兵は身の毛をよだてた。アメリカ軍兵士は銃を射ちたくないので、拡声器で『降参せい、降参せい!』と叫んだが、誰も耳を貸さずにただひたすらアメリカ軍兵士のもとにはうようにしてむかってきた。」確かにこれが「玉砕」という美しい言葉の実態なのだろう。そして、こういった実態を「玉砕」という美しい言葉で包み込んでしまった軍部首脳たちとそれにまんまとだまされた一般市民。記事の中では玉砕を強いられた戦場の軍人が「投降」していたらとか、「玉砕は軍首脳の作戦ミスだ」と公言したらと言う「もし」が検討されている。しかし、自分は、戦場にいる軍人たちではなくて、当時の政治家や日本国内の言論人、または官僚たちが「玉砕」の実態を一般市民へ伝えるべきであったと思う。または、軍部に「玉砕」という表現を使わせるのをやめるべきだった。結局、こういった戦法がアメリカに原爆を使わせる口実を与えることになったのだから。
以上、かなり生意気な文章になってしまった。
明日は浜岡原発を見に行く予定だ。
*6月8日の記事「近づく戦争・テロ社会、これらの動きを止めるべきでは?」から一連番号を付しています。<<637>>
TC:36296, BC:124382, PC:?, Mc:?