2011祈り45 2011年2月14日(月)

 午後3時ぐらいに近所のスーパーへ買い物に行った。今日もどちらかというと寒い一日だった。夜、チーコ(柴犬)を庭に出しておしっこをさせていたら、藪の中に入ってしまって、どうやって出そうかと困ってしまった。まずは灯りをと、延長コードを方々から持ってきてつなげていたら、その内にチーコが自分で出てきていた。目が見えなくなっているので、チーコ自身がどこに進んでいるのかわからないのだろう。

 http://www.asyura2.com/11/senkyo107/msg/258.html に投稿したコメントをこちらにも引用しておく。

08. taked4700 2011年2月12日 17:32:21: 9XFNe/BiX575U : LumXI9KN8U
他の記事のコメントとしても書いたのですが、北方領土問題について、森政権時代まではロシア政権と非常にいい関係にありました。いい関係というと変な表現かもしれませんが、ロシア側は領土問題が懸案事項であり、まだ国際的に決着がついていないことを少なくとも、認めていたのです。1993年の東京宣言では、「北方四島」の島名を列挙して「北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する」と述べられていたのです。なぜ、そういう態度をロシアが取っていたかと言えば、いくつかの要素があります。
1.ロシアの国力がまだあまりついていなかった。つまり、ソ連崩壊の余韻が残っていて、インフラ整備、つまり、石油や天然ガスの採掘、輸送インフラなどがまた整っていなかった。資源価格がまだあまり高くなっていなかった。

2.ソ連崩壊の実質的なシナリオを描き、裏でそれを取り仕切ったアメリカの勢力とロシア政府内部の人間のすり合わせがまだあまり進んでいなかった。つまり、ロシア政権内部の大臣などが実際に何が起こっていて、どんな仕組みになっているかを理解していなかった。そのため、日本に対する態度を決めようとしても統一見解を作ることができなかった。そのため、従来方針を踏襲することになった。

3.ソ連崩壊の工作資金の多くが、日本のバブル発生とその崩壊にともなう投機によって作られていたはずで、そのことを日本政界の中心人物は理解した上で対ロシア外交をやっていた。そのため、かなり強気に出ることができ、当然、そういった強気の姿勢はアメリカ政権の了解するところでもあった。

ところが、1993年8月に自民党政権が崩壊し、細川政権が成立してしまうのです。そして、その細川政権のもと東京宣言が出されるのですが、本来であれば、この東京宣言で2島返還を決めておくべきでした。それがされず、単に、ソ連時代の交渉を考慮するという確認で終わったことが大きな禍根を残したのでした。もっとも、細川政権は、内政だけで手いっぱいの状況で、ずっと混乱続きでしたから、2島返還など言い出す余裕はなかったと思います。

ともかく、1から3にあげた事情は2000年までは一応、その効果というか実態があったのです。そのため、当時の森首相とプーチン大統領のもと、次に示すような共同声明がされます。
以下、平和条約問題に関する日本国総理大臣及びロシア連邦大統領の声明
http://www.hoppou.go.jp/library/document/data/20000905.html より部分引用:

双方は、1993年の日露関係に関する東京宣言及び1998年の日本国とロシア連邦との間の創造的パートナーシップの構築に関するモスクワ宣言を含む今日までに達成された全ての諸合意に依拠しつつ、「択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の帰属に関する問題を解決することにより」平和条約を策定するための交渉を継続することに合意した。

 交渉のプロセスの効率性を高めるとの志向に則り、双方は、平和条約締結問題合同委員会における各々の代表者に対し、以下の措置をとるよう指示を与えた。

-平和条約締結問題合同委員会及び国境画定に関する委員会の作業を一層加速化するための新たな方策を策定すること。

以上引用終わり。