私がかつてこの界隈に住んでいた証の一つ。小・中学校へ通っていた通学路の角にあった祠、今でもあった。しかも有難い人にお世話されている。

まじまじ見てみると、一番右は馬頭観音。次はよくわからないが、左二つには、正面に西国坂東秩父百番札所巡拝塔、左右に石川七兵衛、寛政?年とはっきり彫られている。寛政といえば「天明の大飢饉」の後。

 

 

 

ここから勝手な想像。行き倒れた遺体を村はずれのここまで運んで弔った。つまりここに死体があった訳で、カラスも寄ってきて虫もわいたに違いない。死体に対する作法はいかがなものだったかは知らないが、憐れに思った石川七兵衛さんが、西国坂東秩父の百番を巡礼し、そのしるしとしてここに石碑を建てた。それがまあ現代は通学の子供を静かに見守るさいの神となった、日本人の精神文化の柔らかさ。