僕らは、
誰かの役に立つために生きてるのか?
大きな何かを成し遂げるために生きているのか?
カルマの解消しきるために生きてるのか?
神と再び一体になるために生きているのか?
スピリチュアルな本の中には、
『神と再び一体になる』
がゴールだというふうに書かれているものもあります。
たぶん、だとすると、
制限を解消しきる、カルマの解消しきる
ことが最善の方法でしょう。
だけど、全然ワクワクしね~。
『神と再び一体になる』
最終的には、そうなんだろうと思います。
だけど、それは結果であって。
目的ではない。
神、宇宙のはじまりって言ってもいいかもしれない。
絶対無限の存在とも呼ばれる創造のエネルギーは、
空。
あるとない、全てを含有してる。
欠けてるものがない。
『神との対話』
の中では、アーティスト(画家?)に例えられてます。
アーティストの頭の中には、
もう作品は存在してる。
だけど、そのままでは、体験できない。
キャンパスに表現することで、体験できる。
「ある」
というのは概念だから。
で、
「ある」
というのは、
「ない」状態があってこそ、体験できる。
ようは、比較対象がないと体験できない。
「幸せ」を体験するためには、
「幸せでない」状態がないと、体験できない。
そのない状態が、体験のために必要。
それは、幻なんだけど。
「ある」を体験するための幻なんだけど。
比較対象にして、「ある」を体験するための幻が、
まるで現実のように信じ込んでしまって。
現実のように映し出してしまう。
ちょっと話ズレたけど。
つまり、
スピリチュアル的観点でいうと、
僕らは、神さまが、自分の中に「ある」を体験するために。
生み出された神さまの分身のような存在らしい。
自分自身を、表現して、体験するために。
「自分を表現し、体験する」
ために生み出された。
だから、抽象的に見た
僕らの生きる意味は、
「自分を表現し、体験すること」
最大限に。
思いっきり。
制限なく。
自分の中にある、
創造性や、ワクワク。
愛や喜び。
それを思いっきり表現すること。
そうやって、
学び・体験し尽くして、再び、
だから、僕らがやることは、
ただただ、
最大限に。
思いっきり。
制限なく。
「自分を表現し、体験する」
ということなんだと思います。