【陽だまりの樹】
私の先祖は、徳川御三家、水戸藩の藤田東湖の従兄弟なので少し語りたいと思います。

このタイトルは、
【藤田東湖】が、江戸初期からある桜の古木
すでに虫食いで 倒れかかったこの樹を
「三百年の太平に慣れ 倒れそうな幕府の世」に例えました。❣️
手塚治虫先生は、同じ郷土の大家、藤田東湖の例えをタイトルにしました。

陽だまりの樹は、何度も映像化や、舞台なので表現されてきました。

手塚治虫の経験に基づく代表作です♬

「西郷どん」(西郷隆盛)と藤田東湖(「陽だまりの樹」手塚治虫)

「徳川の世はこの陽だまりの桜の樹のようなものじゃ…」

ー西郷隆盛ー
嘉永5(1852)年。
西郷は、須賀と結婚するが、祖父、父、母があいつで死去する。
翌年、嘉永6(1853)年。
吉之助から善兵衛(ぜんべえ)に改名する。
アメリカ提督・ペリーが浦賀に来航し、幕府に開国をせまる。

ー西郷隆盛と藤田東湖(水戸藩)ー
安政元(1854)年。
西郷は、藩主・斉彬の参勤交代の中小姓の列に
加わり、江戸に到着する。(3月6日)
友人の御小納戸・福崎七之丞の推薦もあり、
斉彬の密事や情報収集などを取り扱う庭方役を命ぜられる。

西郷が水戸藩・藤田東湖と出会う。
樺山三円(資之)の案内で、小石川後楽園の水戸藩邸に徳川斉昭の補佐役・藤田東湖を訪ねる。

西郷は江戸にはじめて出て、当時一流の学者・藤田東湖と会え、その感激を母方の叔父に『心中一点の雲霞(うんか)なく、ただ清浄なる心に相成り、
岐路を忘れ候次第に御座候。彼の学問は終始忠義を主とし、武士となるの仕立てにて、学者風とは大いに違いし、申し候』と手紙を送っている。

ー安政の大地震ー
安政2(1855)年10月2日夜、
江戸に直下型の大地震が起こる。
倒壊家屋1万4千戸、使者7千余人、
江戸城や諸大名の藩邸・民家・社寺など大きな被害を出す。

安政の大地震ー藤田東湖と西郷ー

藤田東湖は、このとき、小石川の水戸藩邸にいた。母親の梅を救助しようとして、東湖は屋内に戻り圧死する。
東湖は49歳であった。

大地震の翌々日。
西郷は、東湖の死を知る。
『去る二日の大地震には、誠に天下の大変にて、水戸の両田(藤田東湖、戸田忠太夫)もゆい打ちに逢われ、何と申し訳なき次第に御座候。噸とこれ限りにて、何と申す口は御座なく候、ご推察さるべく候』(10月4日付)と、1年半の指導と手厚い保護をうけた藤田・戸田の急死を、西郷は、天下の大変と驚き、在藩の同志たちに告げた。

ー「陽だまりの樹」ー
漫画「陽だまりの樹」は、幕末から明治維新まで生きた
手塚治虫の曽祖父・手塚良庵の生涯を描かいている。
良庵(常陸国)は、江戸から、福沢諭吉と同じ年に、
大坂の適塾に入門し、緒方洪庵を師として学ぶ。

大阪から江戸に戻った良庵は医師として、江戸お玉が池に
種痘所の(現在の東京大学医学部の前身)開設につとめた。
明治にはいり、良庵は維新政府の軍医となり、
明治10年の西南戦争に従軍し、赤痢にかかり永眠、享年51歳。