昨年の2025年6月の大雨で近くの国道で土砂崩れがあり、しばらく全面通行止めとなっていた。以来、林道のような迂回路を利用して約半年近くともなった。片道通行ができると聞いて、久しぶりに現地に行く。病院とか大きいスーパーに行くには迂回路だと1時間半近くかかっていたが、これで何とか通常のタイムの1時間強くらいで町へいけることとなった。

 

 

 いつも通る国道だが、こんなに急峻な崖があったんだと今更ながら能天気な脳髄が愕然とする。それにしても、地域住民への周知が遅い。迂回路はあるとの看板はあったが、久しぶりの迂回路はしばしば迷いそうになっていた。

 隣町で同じような崩土があったときは、丁寧に分岐点には案内看板があってずいぶん助かったことがある。この対応の違いは地域住民へ寄り添う「想像力」の差だと思うが、その違いはどのようになっているのか、気になる。

 

 

 その後、行政からやっと現況の資料が回覧で回ってきた。それによると、崩落した崖の高さは62mもあり、画像の矢印(編集・たけべい)の所に国道があり、その道路が埋まっているのがわかる。その資料は、いかにも技術屋が作成した正確な素晴らしいものだけど、それ以前に、「崩土がどの辺でおきて、迂回路はここだよ」という簡単なチラシをまずは最初に周知してほしかった。自治会経由で口頭の情報はあったものの、住民どおしはあいまいな情報しかもっていなかった。

 

 

 危機管理の手法が慣れていないことを感じる。工事はできてもそれをいかに周知するか、という分野が練れていないということだ。現地では、すでに「モルタル吹付け」や「落石防止網」設置や頑丈な「仮設防護柵」の工事など基本的な復旧は完了したので、片側通行ができるようになった。

 

 

 崖が急峻のため工事中にも土砂の崩落が再びあり、復旧に時間がかかったようだ。そのため、リモコン操作による「ケンファイター」という高所無人重機をV字のワイヤーで吊り、崩落の危険な土砂を除去(「セーフティークライマー」工法)するという難工事となった。

 

 

 崩落した土砂は、下に流れていた川の半分ほどを埋めてしまった。もし、土砂が川を堰き止めてしまうと付近は水浸しになり、被害が拡大する。それでおそらく、川の流れを確保するため重機で土砂が一か所に偏らないよう寄せていたように見える。もし、大雨が続いていたら川が氾濫する恐れが予想された。

 

      (画像は2013年のもの)

 今後の工事は、川に落下した土砂を撤去し、道路を復旧していくことで工事は終了となる。その予定は2月らしい。災害列島日本の姿がここ小さな過疎地でも起きている。ここ数年で、こうした道路が寸断・陥没する災害が約7~8か所もこの周近だけでも起きている。

 

 小さな裏山を背負っているわが家としても他人ごとではない。しかも、その原因の一つがイノシシにあることを言いたいが、それはまたいつかということで、まずは「お休みなさい」を優先するよ。

 

 

  テレビの派手なおせち料理とはずいぶん遠い粗食で済ますのがいつもの正月だった。もちろん、心のこもったお雑煮や黒豆なども準備しているが。一昨日、畑の周りで野生化していたジャンボな「トウガン」もついに完食。秋に収穫したトウガンは毎朝の野菜ジュースなどの主賓として活躍し、名前の通り「冬瓜」として冬まで経費ゼロ円で家計を担ってきた。

 

 ときには温かい鍋やスープやカレーなどにも活用されたり、食べきれず近隣に引き取ってもらったりもした。暑さのせいか今年はいくつか腐ってしまったものもあったが、合計すると、少なくとも20個以上のジャンボ冬瓜を収穫したはずだ。

 野生化した冬瓜は100%生ごみの種から芽が出たもの。その苗のいくつかを掘り上げて畑に移植すると、奔放に茎を伸ばし、周りの藪に侵入して密かに実を大きくしていく。今回も、目で見えないところでかくれんぼしてジャンボになっていくわがグータラ農法のホープである。

 

 

 そんな赤貧の暮らしを察してか、近所のハンターから捕りたての鹿肉が和宮様に大晦日に献上された。料理上手な和宮様はさっそく生肉をブロックにしてローストにしていく。そこに、市販と手作りとのソースをミックスして恭しく食べてみる。柔らかくてうまーい。臭みもない。

 このところ、シカやイノシシからの食被害は少なくなった。ハンターによれば山奥で熊が活発になってきたのでおとなしくなっているのではないかと分析する。

 

 

 わが農的暮らしでは、もっぱら害獣柵ずくりに追われているが、そんな気配もシカやイノシシに伝わっているのかもしれない。逆に、こちらの手薄になった隙を狙ってタヌキが現れ、せっかく成長しだした大根・ワサビ菜の食被害があり、あてにしていたのでとても痛い。さいわい、近所の人から大量の大根などをいただいたことが大きな救いとなった。

 

 

    そうこうしているうちに、和宮様宛に魚の豪華な献上品がどっさりと届く。わが家ではめったに口に入らぬ高級魚ばかりだった。おかげで、おせち料理もあまり買わないでこれで十分なお正月となった。ふだん、丁寧な交流をしてきた和宮様のご威光のおかげである。さっそく、お呼ばれしてご相伴となる。山から、海から、畑から、都会から贈り物が届いた豪華な正月ともなった。

 

 

 さすが、新鮮なキンメダイや酒蒸し鯛や刺身などの旨さは言うまでもない。手を汚しながら骨までしゃぶりつきながらきれいにいただく。わが家のふだんの粗食、つまり玄米食や新鮮野菜を中心としている健康食(と居直ってる)の素朴さがあってこそのご馳走だ。

 

 しかも、秋にいただいた銀座や北海道のゆであずき・ぜんざいをはじめ、創業1663年の島川の麦芽水飴、さらにはソフトな南米産珈琲豆・ジャンボな国産うなぎなども四方から賜り、過疎地だけではなかなか味わえない旨味を堪能するという新年になった。家庭菜園があると、毎日同じものを食べ続けてしまうことが少なくないので、久しぶりに都会がやってきたかのようだ。

 

    だから、ふだん、余った野菜は近所全般ににおすそ分けをするようにしている。「入植」した当初はそういうことはあまりなく、周りからお裾分けもほとんどなかった。それぞれの農家が同じものを作っていたのでお裾分けは必要ないし、あるとしても近親者か一部だけかのようにみえた。詳しい人に聞くと、あまりそういうことはやっていないという。それがよそものにとっては奇異にみえた。というより、わが家はよほど怪しい星の異邦人に見えたのかもしれない。

 

 

 それが野菜の物々交換のような関係が「広く」できてきたのがなんと最近のことだった。したがって、相手がいつも作っている作物は避けて、できるだけ違うものや品種の違うものを作るようにしている。それをお裾分けすると喜ばれる。 

 ということで、お裾分けは人間関係の豊かさの形成にもつながっていき、近所からのいただきものも多くなったことを実感する。これは都会生活では考えられないことだった。おかげで深謝、深謝の田舎生活ともなった。

   

 2冊目の課題図書は、シンガーソングライターの合田道人さんが書いた『童謡の謎 / 本当は戦争の歌だった』(祥伝社、2007.7)を読み、CDも聴いてみる。今でも人気のある童謡だけを紹介している。それで、子ども向けの戦時歌謡は除外されている。確かに以前、「汽車ポッポ」は「兵隊さんの汽車」というのが原型だったという放送を思い出した。

 「汽車 汽車 ポッポポッポ シュッポシュポ シュポッポ  

  兵隊さんをのせて シュッポシュポ シュポッポ

  ぼくらも手に手に 日の丸の旗をふりふり 送りましょう

  バンザイ! バンザイ !  バンザイ! 兵隊さん 兵隊さん 万々歳! 」 

  (イラストはsuruga-ya.jpから)

   本書によれば、この「兵隊さんの汽車」は、敗戦後NHKが年末に「紅白歌合戦」を企画し、歌詞を変えてGHQからやっと許可をもらった。本番4日前だったという。

 「汽車 汽車ポッポ ポッポ」の歌詞は、「汽車 汽車シュッポ シュッポ」へ。

 「兵隊さんをのせて」は、「ぼくらをのせて」に。

 「ぼくらも手に手に 日の丸の」は、「スピード スピード まどの外」に。

 「旗をふりふり 送りましょう」は、「田んぼも とぶとぶ 家もとぶ」に、さらに「田んぼ」は「畑もとぶとぶ」というように全く変わっていった。

 

 

  (横須賀・三浦版タウンニュースから)

 加えて、本書シリーズの『案外、知らずに歌ってた・童謡の謎』では、「里の秋」を紹介している。この歌は太平洋戦争勃発後すぐに発表されたもので、原題は「星月夜」だった。1番も2番も抒情豊かな内容だったが、戦地の父親へ慰問する内容が、3番・4番だった。

 「三番 きれいな きれいな 椰子の島 しっかり護って くださいと

   ああ 父さんの ご武運を 今夜もひとりで いのります」

 「四 大きく 大きく なったら 兵隊さんだよ うれしいな

   ねえ 母さんよ 僕だって 必ず お国を 護ります」

 

  (画像はkosho.or.jpから)

 それから終戦後、兵士の引き揚げ船が浦賀港に到着することになり、この歌は、復員兵士を出迎えるための歌として放送直前に三番の歌詞が変えられた。 四番は削除される。

 三番 「さよならさよなら 椰子の島  お船に揺られて 帰られる

    ああとうさんよ 御無事でと  今夜も かあさんと 祈ります」

   この新装の歌が全国放送されると、感激の声が放送局に殺到し、それが現代でも愛好される名曲ともなっている。

 

     (画像はジャパンアーカイブズから)

 「汽車ポッポ」以外にも、本書は、「ウミ」「かもめの水兵さん」「戦友」「桃太郎」「隣組」なども紹介されている。また、厭戦的だと圧力があった歌や後に反戦歌もどきとなっていく歌なども掲載されている。当時、軍歌もどきの愛唱歌も多数あったようだが、紙数の関係で割愛されているようだ。

 

 ともかく、こうした臭いものにふたをしたいような負の遺産にメスを入れて希望を生産していく著者の作業を、マスメディアはもっともっととりあげてほしいと思わずにはいられない。

 先日、トランプ大統領のベネズエラ軍事侵攻があったが、大国による力による脅しがますます跋扈している世界情勢のなか、日本の誠実で現実的で長期的な努力の、粘り強い出番がもっとあるべきではないかと思う。それは童謡が本来持っている自然と人間の美しさ・やさしさの復権につながるものではないか、と。

 

  (画像はreko-do.webp)

 加えて、紹介してくれたブラボーさんによれば、本書は、「一切放下(イッサイホウカ) 一切去来(イッサイキョライ)」(一切のこだわりを捨て、自他を受け入れ自由になる)という言葉が浮かんできたという。それは「求道」というより「道」を外れても、と解釈した「成行き」の句ではないかとしている。しかし、自分より真面目な「去来」だとも評価もしている。いつものシニカルな論評の師の解釈は難しい。

 

 

 畏友のブラボーさんから課題図書2冊が送られてきた。1冊目は、櫻元富雄『歌と戦争』(アテネ書房、2005.3)だった。敗戦60周年記念出版として、「歌が開いた戦争への道」との帯タイトルが鮮烈だ。戦後生まれの1期生で企業戦士でもあったブラボーさんがこうしたジャンルにも関心を持っているのは貴重な卓見だ、といつもながら感服している。

 しかし、こうしたような戦時や政治にかかわる話題をまわりに差し向けると、見事にすり抜けてしまう空気をさんざん吸ってきた。そんな場面に遭遇すると、当たり障りのない話題に切り替えるスキルの高さにはいつも「感心」する。「戦後教育のタブー」の成果がいまだに生きていることを痛感する。確かに、先生は政治を避けてきたからね。

 

 その意味で、戦時体験をした著者の痛恨の告発は、戦後生まれのオイラとしては首を垂れるしかない。個人的にも、こういう話題は避けたいし嫌いなのだというのが本音だ。「パンドラの箱」は開けたくはない。しかし、真実は知っておくべきだと読み進める。

 

  (画像は本書から)

 本書は、読み物というより、これでもかと思える戦時歌謡・軍歌などを収集した資料集・史料集といったものに思える。この膨大な資料を残すことで、「父は歌に送られ戦場へ、母は歌って銃後に耐えた」。そういう現実を忘れないでという著者の痛恨の願いが染みてくる。戦後になっても多数の軍歌をそらんじていた軍国少年の後悔である。

 

 裏の帯の紹介文が秀逸なので引用してみる。

 「戦時下、3000曲を越える軍歌がつくられ、国民の心を忠君愛国、鬼畜米英に染めあげた。

 北原白秋やサトウハチローらが戦争賛美の詩を書き、山田耕筰、小関裕而らが勇壮な曲をつけた。

 子供たちは<僕は軍人大好きよ>を学校で歌い、<軍国子守唄>で眠りについた。

 詩人・作曲家・歌手・放送界・音楽関係者が総がかりでつくった軍歌ワールドを解明し、その責任を問う」

 

  

 著者は、冒頭の「はじめに」に、「音楽は、戦争推進に多大の貢献をしたのである。ところが、それらの音楽を生産した<死の音楽商売人>の責任はほとんど問題にされていない」と指弾する。そして、「音楽挺身隊長」の山田耕筰は文化勲章を、小関裕而は「日本の行進曲王」と讃えられていると名指しで糾弾する。

 

 「国家が走狗となった音楽家を馴服(ジュンプク)して、歌で国民に愛国心や敵愾心を強制・宣揚すれば、とんでもない事態が進行することを体験した者として、戦時下の音楽家の表現責任にはどこまでもこだわる」と手厳しい。

 それを証明するかのように、本書にはこれでもかというくらい戦時下音楽の作詞・作曲に有名人の名前が続々出てくる。確かに、戦後その有名人らの痛恨の表明はほとんど聞いたことはない。聞いたとしてもほんの数人だ。

 

    (画像はbest-shopから)

 戦前の音楽の雄と言えば、『音楽の友』出版の堀内敬三があげられるが、山田耕筰とともに敵性音楽追放の尖兵だった。戦後も堂々と活躍していたので覚えている。

 また、作詞でも一流の文化人・文学者が動員された。たとえば、 土岐善麿・相馬御風・児玉花外・川路柳虹・白鳥省吾・大木惇夫・佐藤惣之助・百田宗治・西条八十・佐々木信綱・園地文子・菊田一夫らの名前が見つけられた。

 

 著者は、「あとがき」で、「忘れられ、隠滅されて、無かったものになってしまっている」史料を記録することが本旨で、当事者の告発や暴き立てを追求するものではないことをことわっている。著者に対する表面的な中傷があったことを察することができる。

 

     

 ブラボーさんによれば、櫻木富雄氏の本は、「リストの中にはこの歌にそんな力があるのかと思える歌もある。ただ、聞かされる・歌わされるばかりではなく、聞きたい・歌いたい・歌う、すなわち著者本人の気持ちの吐露以外には、大衆の心のうちへの視点が全くかけている、と感じられる」と。

 

 さらに、「本書の主旨は、時代をさかのぼって<戦争は大衆がささえた>と等価であると言いたいのだとすれば、それはそれなりに複雑な評価はできるかもしれないが」と結ぶ。

 家康が旗印にした浄土宗の「厭離穢土(エンリエド) 欣求浄土(ゴングジョウド)」(汚れた現世を平和な浄土として築く)という言葉を引用して、この「教信」というより歴史的には「狂信」的な体句の典型ではないかと懐疑的だ。オイラは戦争体験した著者の怒り・哀しみ・辛さをくみ取ることがまずは第一と考える。 

 

  

  開けちゃいましたが、amebaでは初めての新年。本年もよろしくー。

  地域コンサートを主宰していたおばちゃんから正月飾りが届いた。さっそく玄関入口の上に装着する。風が強い地元なのでプラプラしないよう配慮して固定。あらためて眺めると立派な末広がりのしめ縄だった。

 今思うに、過疎地でありながら100人~150人規模のコンサートをともにどこからの援助も受けずにやってきたことを思い出す。

 それはおばちゃんの強固な信念と人徳によるものが大きいが、それを側面から支援してきたのもわれわれ自然散策会ボランティアの有志だった。個人的には、これらのパワーが過疎地に漂う閉鎖性や諦めを突破することにもあった。

 

 

 しかし、その参加者の多くは都会で街づくりをやっている有為の顔ぶれで、地元からの参加は少なかったのが現実だった。地元からは暇人がやっていると見なされたようで、そのボランティアさえもよそものばかりだった。そのうちに、主宰者の高齢化でコンサートはストップとなってしまったが、個人的なつながりは続いている。その証の一つの例が「末広がりの正月飾り」でもあった。

 

 さて、2022年の投げ入れ生け花は、「アオキ」の実をメインに杉の葉を投入したシンプルな生け花を用意した。これ以降は、アオキをメインにした投げ入れ生け花となった。しかし。

 

 

 いつも生け花のメインにしていた「アオキ」の大きな赤い実は全滅だった。また、たわわに実っていたはずの「ナンテン」もほとんど消えていた。当局の見解ではどうやら野鳥がついばんでいったとのことだった。しかたなく、向かいのガーデンに実生で育ててきた小さなナンテンを思い出して、そのうちの、今年初めて実を出していた5~6本から赤い実をつけた枝をかき集める。近隣にもいっぱいあるのに、野菜を含めいつもわが土地が狙われてしまう。野鳥も動物もオラの脇の甘さがわかるらしい。

 だもんで、定植が珍しく成功した「プリペットレモンライム」の黄色い葉をメインにして、アオキやイヌガヤの枝を投げ入れて生け花にしたという次第。

 

 

 となりに、挿し木で育てた「ヤエクチナシ」の苗を添える。これで玄関前はちょっぴり正月らしい賑わいとなった。やるべきことは山積しているのに、掘り炬燵から這い出るのは難しい。だから、ときどき勇気を出して外に出て一つだけでもいいから作業をすることを新年の日課とする。激動の世界は唸っている。テレビからの目立とうとする余計な喧騒にがっかりするのでオフにする。

 

 目の前の世界はいつものとおり穏やかだ。ポツンと6軒がある中山間地だが、車の出入りは確認できるものの、人とぱったり出会うことはなかなかない。そんないつもと変わらない田舎の新年が始まる。元旦の朝には近くの小さなお宮で新年の自作の祝詞を読むこととなった。仏教と同じくお経を読むようにパターン化した言葉を発するのに違和感がある。みんなが納得してわかるようなルネッサンスが必要だ、と思う初日のスタートだ。