教育の改革 | 生きたいように生き続ける

生きたいように生き続ける

公教育の変革を通じて、より良い社会をつくるプロセス

いろんな方が教育の改革に取り組まれてる。
改革というのはなにも制度や施設・教具に限ったものではない。
現場で働かれてる先生の中にも、学校運営や職場環境、子どもたちの学ぶ環境の改革に取り組りくまれてる方もおられる。

今までこのような取り組みはずっと続いていて、日本の教育は変化してきた。

しかし、大きな達成に至っていないのは、核心を捉えられておらず、後手になってるからだ。
いわば、その場しのぎの変化。

教育の改革でいつも言われるのは「これからの社会はどのようになってくるか」だから、「学校が担う役割はなんなのか」(例:情報社会・成熟社会→21世紀スキル)という順番。
ただ、これは終戦後の「富国殖産の社会」に向けて、「偏差値教育」(経済発展→決まった事をやり続けられる、精度を高められる)と内容が違うだけで、核心をついたわけではない。

改革は「教育はなんのためにあるのか」を定義して、学校やカリキュラムを創る必要がある。
じゃないと、社会の形によって教育過程がブレる。

もちろん、来る時代を予測して必要なスキルを身につける事も大切。
だが、教育はどのような社会が来ても汎用性のある力を公平に身に付けられる事を目指すべきだと思う。

だから、ICTや外国語やプログラミングなどのツールを改革だと思ってはいけない。
それは、ただのツール。
ツールは教育によって育みたい力を達成するために適材適所に利用するもので、それ自体が目的ではない。汎用性はない。

では「教育によって育みたい力」とはなんなのか。
教育を受ける目的は、「自分が生きたいように生きる力」をつけるためだと思う。

では、生きたいように生きる為に必要な力はなんなのか。

自分が達成したい目標・夢(当事者意識)を持ち、その為に必要な知識や技術を獲得し続けること(情報収集・情報編集・対話)ができ、その知識と技術と自分の特徴を発揮(計画・実行)することができ、足りない事を補え合える人と繋がること(質の高い人間関係の構築)ができること。

しかし、中にはそもそも夢や目標がパッとしないという人もいるだろう。

ただ、思い返して欲しい。
子どもの頃はほとんどの人が夢や好きなものが多かった。口にする事ができた。多感だった。

その時に、上記の過程で挑戦・探求・共有経験を積み重ねて習慣化できないと、年齢とともに夢がなくなるのはごく当たり前だと思う。

だから、多感な頃からこの過程をグルグル螺旋状に上げて経験する事が生きたいように生きる力の獲得に繋がる。

その過程を教育課程と定義する。
その課程から成功体験を出来るだけ多く重ねる事を目当てに適材適所にツールを利用する。

その課程が、子どもたちの人生におこる出来事や可能性の捉え方(マインドセット)になり、課程から得た習慣が発達(性格的特性のビック5)の成長に繋がる。

このすべての社会や生き方に使えるマインドセットと発達の保証が「教育の目的」だと思う。












これは、僕の意見であって正解ではない。

僕が意見を持つように、他の意見も存在する。

お互いに意見がある事を認め合う。

そして、それぞれが子どもにとってベストだと思う課程を創りあって、手段をたくさん提示しよう。
日本はそれが可能なところまできたんだから。