終戦記念日
今日は終戦記念日。
子どもの頃、母方の祖母がテレビの前に鎮座し、黙祷を捧げ涙していた絵がいつも頭に浮かぶ。
おそらくそれは、実は終戦記念日じゃなく、原爆の日の式典を見ていた祖母の姿だと思う。
でも、思い出すのだ。
太平洋戦争
戦争が悲惨で決して肯定されるものでは無いと言う事は重々承知している。
しかし、アンタッチャブルと言うのにも違和感がある。
人間は‘欲’の塊だ。
その‘欲’によって、進歩して来たと思う。
‘欲求’は止まらない、それを否定する事は、人の発展をも否定しかねない。
戦争の背景にも、その‘欲’がある。
‘欲’と‘欲’のぶつかり合いが戦争なのだ。
勝者や敗者、どちらが悪いじゃ無く、
どちらにも言い分が有り、そこへ行き着くに至る過程が必ず有るはずだ。
その考えが、独裁者の様に独善的であっても、‘欲’を持つ人としての生業から観れば、当然の所業と言えるのかもしれない。
個人の欲望は、他者の不利益に為りやすく、
逆を反せば、他者の欲望は自分の不利益に為りやすいと言える。
だから、思いやりが大切なのでしょう。
100人の違う考えの人が、思い思い自分勝手な事をすれば、1つ良い思いをすれど、99の不愉快を味わう可能性だってある。
そこで、人と人とが思いやれば、99の不愉快は減らせる可能性が生まれる。場合によっては愉快が増える事だって有るだろ。
思い切って言えば、
思いやりや協調などは、めぐりめぐって、すべて自分の為なのである。
悪人の大半は孤立している。
取り巻きが有っても、精神的孤立が有る。
孤立した人間は、他者との関係を想像し難く、想像し難いが故に否定しやすい。思いやれない。
ならば、独裁者を生んだ背景には、孤立を生む社会やコミュニティがあったのだと言えないだろうか?
だからこそ、戦争についても、
善悪を論じることに終始せず、原因や背景を探り、今後への対策とする事にもっと労力をさくべきでは無いだろか?
これは、戦争を‘犯罪’に置き換えても言えるだろう。
悲劇や悲惨さの伝達は、それを知る為の興味への入り口であっても、解決にはならない。
だから戦争は繰り返される。
病院に置き換えると、解りやすい。
末期患者の悲劇を写しても、患者は減らない。
そこへ至る、生活習慣や健康法を伝えてこそ減少へつながるはずだ。
戦争
この日本ではどう伝えてられているだろうか?
終戦記念日の今日
テレビでの特番はほとんどない。
涙する祖母の姿があったからこそ、
自分は‘戦争とは何だったのか’と考えるきっかけに成り得たのだろう。
今の日本はどうだろうか…
子どもの頃、母方の祖母がテレビの前に鎮座し、黙祷を捧げ涙していた絵がいつも頭に浮かぶ。
おそらくそれは、実は終戦記念日じゃなく、原爆の日の式典を見ていた祖母の姿だと思う。
でも、思い出すのだ。
太平洋戦争
戦争が悲惨で決して肯定されるものでは無いと言う事は重々承知している。
しかし、アンタッチャブルと言うのにも違和感がある。
人間は‘欲’の塊だ。
その‘欲’によって、進歩して来たと思う。
‘欲求’は止まらない、それを否定する事は、人の発展をも否定しかねない。
戦争の背景にも、その‘欲’がある。
‘欲’と‘欲’のぶつかり合いが戦争なのだ。
勝者や敗者、どちらが悪いじゃ無く、
どちらにも言い分が有り、そこへ行き着くに至る過程が必ず有るはずだ。
その考えが、独裁者の様に独善的であっても、‘欲’を持つ人としての生業から観れば、当然の所業と言えるのかもしれない。
個人の欲望は、他者の不利益に為りやすく、
逆を反せば、他者の欲望は自分の不利益に為りやすいと言える。
だから、思いやりが大切なのでしょう。
100人の違う考えの人が、思い思い自分勝手な事をすれば、1つ良い思いをすれど、99の不愉快を味わう可能性だってある。
そこで、人と人とが思いやれば、99の不愉快は減らせる可能性が生まれる。場合によっては愉快が増える事だって有るだろ。
思い切って言えば、
思いやりや協調などは、めぐりめぐって、すべて自分の為なのである。
悪人の大半は孤立している。
取り巻きが有っても、精神的孤立が有る。
孤立した人間は、他者との関係を想像し難く、想像し難いが故に否定しやすい。思いやれない。
ならば、独裁者を生んだ背景には、孤立を生む社会やコミュニティがあったのだと言えないだろうか?
だからこそ、戦争についても、
善悪を論じることに終始せず、原因や背景を探り、今後への対策とする事にもっと労力をさくべきでは無いだろか?
これは、戦争を‘犯罪’に置き換えても言えるだろう。
悲劇や悲惨さの伝達は、それを知る為の興味への入り口であっても、解決にはならない。
だから戦争は繰り返される。
病院に置き換えると、解りやすい。
末期患者の悲劇を写しても、患者は減らない。
そこへ至る、生活習慣や健康法を伝えてこそ減少へつながるはずだ。
戦争
この日本ではどう伝えてられているだろうか?
終戦記念日の今日
テレビでの特番はほとんどない。
涙する祖母の姿があったからこそ、
自分は‘戦争とは何だったのか’と考えるきっかけに成り得たのだろう。
今の日本はどうだろうか…
未練がましい
こないだ(6月末)またメールを送ってしまった。
丁度?記念日があったので、それに合わせて…
男として、情けない、カッコ悪いってことは十分理解していたけど、何もせずに後悔したく無かったから…
それからひと月、何もリアクションは無い。
心に空いた穴は埋まらなかった。
毎日の様に夢を見て、毎日の様に考える。
何を投げても帰って来ない虚しさ…
とっくに終わってんのに。
物騒なニュースに自分を重ね、
自分もそんな風に写ってるのかなぁなんて、言動を鈍らせる。
自分に人を引き付ける力なく、俺に着いてこいと言えない弱さに、諦めるしかない事を覚る。
どうして前に進め無いのだろう。
考えるばかりで行動出来ない。
幸せは手を伸ばすしかないのに。
『求めなさい、さすれば与えられん』
このキリストの一節が嫌いだったけど、誤解だったと気付く。
何でも手に入るって事じゃなく、‘手を伸ばせ(努力すれ)ば’手に入るって事やったんやね。
自分はダルマや!
解ってんじゃん。
この頃はこのブログも億劫や
蛍がいた!
今日も夜中にランニングに出掛けた。
近所の住吉川添いを走る。
この川は両岸に簡単な遊歩道が整備されており、河口とそこから2.5キロ地点で両岸が橋で結ばれていて一周5キロの周回コースに成っている。
そこを3周ジョギングする。
住吉川は小さな川で、六甲山から大阪湾へと一気に流れ込む急勾配の川だ。
2.5キロで標高が50メートルは違うと思う。
けっこうキツい。
そこに今日、ホタルがいた!
びっくりした。
阪急電車の鉄橋をくぐると登り坂も折り返しが近く成るのだが、この辺りは少し暗く、砂防も近いせいか緑が深くなる。
サギやイノシンやカモ、ネズミなどいろんな生き物をこの川では見てきたが、ホタルは初めてだ。
そんなに多くはない、でも確かに十数匹は飛んでいた。
いつ以来だろう?
ホタルを見たのは…。
驚いた。
こんな街中で…
誰かが放流したのだろうか?
密度は薄いが力強く瞬いていた。
源氏蛍かな?
おばあちゃんの事を思い出した。
子どもの頃に島根のおばあちゃんから宅急便で虫カゴに入ったホタルが送られて来た事があった。
おばあちゃんはどんな気持ちで送ってくれたんだろう?
あぁ、あの子にも見せてあげたいなぁなんて…センチメンタルに成ったりなんかして。
この川は雨が降ると一気に増水するのだが、明日からしばらく雨の予報…ホタルは大丈夫かな?

