BUZZ mediaというまとめサイトに最近アップされた記事が話題になっている。
宮沢和史さんが書いた名曲「島唄」のその歌詞の解釈についてだ。

全文はここ から確かめていただきたい。
http://buzz-media.net/moving/4417/
全体としてはナルホド、いい話だ。というかんじなのだが、
いやちょっと待て。
この記事をFBでシェアして、こう私はコメントした。
「気づきというものはいつになっても、そして受け手としてとしてのこちらがいくつになったとしても大切です。
名曲でありかつ素晴らしい歌詞です。
ただ、深い意味が隠されているのはこの曲だけではありません。反戦に限らなければ桑田圭佑や吉井和哉、忌野清志郎の詞にはかなりの確率で裏が詠まれています。
それからほとんどの童謡も。」

そう、歌詞というものは表層的なものは実は少数だ、と断定できる。
いや、優れた歌詞は逆に必ず複層的な意味が含まれていると言っていい。

もともと詩というものは内省的で個人的なものだ。
他の誰にわからなくたって、作者なりの意味を込めていたりするものだ。
「島唄」はどうかといえば、むしろバレモノに近い。
そうとう感性が鈍い人間でない限り、おぼろげにもその歌詞の真意はつかめるはず。
そこまでいかなくても「千代にさよなら」と聞けば
永遠の別れ=死別だと気づけなければ日本人としてダメだろう。

つまり、当たり前の事をご大層に言い過ぎ。
これはしかしこの記事を書いた人の罪というより、
元ネタ、ソースとなった朝日新聞の記事に元凶がある。

本当に新聞記者という人種は度し難いところがあって、
お利口バカのくせにプライドだけは高いから、
この元記事も作家気どりでレトリックに変に拘りつつ、上から目線で書いていて、
この真意に「誰も気づかなかっただろうけど俺様は気づいて取材したんだもんね」といった、
勘違いの矜持にあふれた物言いになっている。
是非ともその慧眼で、フカセサトシの象徴詩のような歌詞も解釈してもらいたいものだ。
山口一郎はどうだろう。ポール・サイモンは?ジョン・レノンは?
さぞかしトンチンカンな珍説を開陳してくれるんだろう。

話変わって愛川欽也さんの訃報。
4/18朝刊には早速読売の編集手帳にはそれに関した記事。
これもまた踏み込みの浅いうわっ滑りした書きっぷり。
迷える青春期の若者に共感を与えてくれた言葉ってのが通り一遍の借り物っぽい。
1971年に高校生だったという今は60絡みと思われるこのロートル記者は、
キンキンのパックインミュージックは聞いていなかった、と断言しよう。
パックがシェイクスピアに由来するなどと小賢しい衒学を弄して字数を稼いでいるのが見え見えだ。
やれやれ、下劣だな。