はちがつや、むいか、ここのか、じゅうごにち
優れた、実に深い俳句である。きちんと季語も入っている。

作者は荻原枯石。
異論もあるようだが、ここではそれを拘泥しない。

この日のことを毎年この月にだけ思いだす、というのも実はよろしくないことに違いない。
72年前4年にわたる戦争が始まって、68年前に恐ろしい兵器が使われて敗北した、という事実を
我々はいつも、つねに心のどこかに置いておくべきなのだきっと。

だから3月10日も5月25日も同様に忘れてはならないし、
さらに敷衍していくなら、戦争以外の大惨事、9月1日、1月17日、3月11日も
同じく深く心に留めておかねばならない。

そんなことを考えながら震災の前の年の8月7日に書いた記事を読み換えし、
ここに再録する。



広島と長崎の間に立秋がはさまる。
奇しくもというか、偶々そう言う事になっており、
節気のこととて、毎年必ずそうなる。

エノラ・ゲイがリトルボーイを引き連れて来たときは夏で、
ボックスカーがファットマンを担いで来たときは秋だったのだ、あの年も。

夏にはウランが、秋にはプルトニウムが降り注いだのだった。


今年、2010年はこの日が土曜に当たり、
都内周辺でも花火大会の集中日であるそうだ。
板橋だろうか、北東の方角で上がっているのが、窓から見える。
秒速350mあまりで遅ればせに重低音がやってくる。



花火の華やかさと儚さは今更言うまでもないが、
それには季節感が大きく関わってはいるんだろう。


煙火業界の事はよくわからないが、
実は打ち上げ花火に適した季節は本来冬なのかもしれない。
暗くなるのも早いし、空気も澄んで乾いているから、
良く燃えて、良く見える。
無風という事も少ないから、煙が滞らない。


でも、そこに情緒や、象徴性というものが失われるんだろうな。
日本人の心性としてね。
迎え火、送り火としての意味も。


かの2つの花火が炸裂したのは、
いずれも午前中の事。
「意味」や「意図」は山ほどそこに乗っかっているが、
情緒などは一片たりとも無いのは無論である。