ヴェトナムへの招待状とともに初めて都会に出て来た田舎の、それも移民系の青年クロードが、
自らの来し方行く末に思いを馳せ、歌い上げるバラード。それがこの曲。

「団塊の世代」と言われる方々が時々自分に影響を与えた名言として挙げる、
「国があなたに何をしてくれるか、では無く、あなたが国家に対して何ができるかを考えよう」という言葉。
J.F. ケネディが大統領に就任後の所信表明演説の中で語られたのだったか。
それはアメリカの若者はもとより、1960年当時の日本の若者にも大きな共感を持って迎えられたようだ。

しかし皮肉にもそれはその大統領が凶弾に斃れた後を襲ったL.B.Jの政策によって、
徴兵というかたちになって示される。

純朴な田舎の青年はだから、前向きなモチベーションを持って、
軍に入隊するために故郷を後にするのだった。
その、戦争の意味なんかはわからないままに。


ところがニューヨークでは同世代の若者達が、この戦争は間違いだと言う。
自由だ愛だドラッグだマリファナだと言いながら、ヒッピー生活を謳歌している。


そして所謂WASPの若者達は軍隊に狩り出されることもなく、
上流の暮らしはそよとも揺るがずに営まれている。
徴兵されているのは移民系、黒人系ばかり。
なんだか変だ、おかしい、と思い始めたところに無理矢理ドラッグ体験をさせられて、
『ハレ・クリシュナ』でトリップしてしまった後に、我に帰って自問自答する。


俺は何処に行く?

何処から来て?

どうして僕は生きてる?

なぜ僕は死ぬ?


教えてくれ、なぜなんだ? 

教えてくれ、何処へ行くのか?



そういう歌だ。
これもこの物語のテーマを語っている。

さらに言うならもっと人間の存在の根源に迫っているとも言える。
ほとんどこれは禅の世界だし、
五蘊皆空を語っているのに近い。

舞台版では第1幕の最後を飾るこのナンバーを、

映画ではミロシュ・フォアマンがどう料理したか。

そもそも、この『ヘアー』自体ほとんどロケで撮っている。
セットを使った場面もかなり巨大なものを引きの絵で撮っているシーンがほとんど。

ここでは実際の街に夥しい数のエキストラを配して、
主人公クロードの孤独と疎外感を表現している。

日々の生業、営みのためにそれぞれの目的を持って都市を行き交う群集達。

ひところ日本でも「エコノミックアニマル」を表現するのに使われた、
無機質な群集のロングショットなのだが、
これをすべてきちんと計算の上で振り付けを付けた群舞として見せている。

その群集の中にあって決定的に違和感を発する存在である、クロード。
明解な目的も見出せず、何処に向かうかも解らないひとつの存在が、
これ以上ない程に残酷にあぶり出されている。

どこに向かうのかと問いながら、
それは「戦場」に他ならない事を観るものも知っているし、
クロードも知っているというノーフューチャーな状況。
彼がその命を賭けて守るはずの市民達は、
彼の存在にすら気がつかず、足早に通り過ぎる。

あるときはそれぞれの方向へ、
あるときは一糸乱れず同じ方向へ、
その何処にたりともクロードの入る隙を見せずに、
無気味なマスゲームを演じる群集達。


ここには、やはりヴェトナム戦争に対する鋭い批判が横溢している。
それでこそこの映画が79年になって作られた意味があるってものだ。

ヴェトナムに多くの若者を送りだしたのは、
国家でもあるが、
市民ひとりひとりでもあったのだ、という。



そしてクロードは、ジョニーは、あの人は、

戦場へ行った。

そして兵士はどこへ行ったか?

彼らは墓場へ行ったのだった。

やがて墓場も朽ちたらどうなる?

そこには花が咲いている。


というのはPPM、キングストントリオでお馴染み、『花はどこへ行った』。


腑抜けた時代の甘ったれた「自分探し」とは根本的に話が違うのである。