立待ちの月が朧に輝きながらゆるゆると中天に昇りつつある午前0時過ぎ。
月は弥生に改まり、様々な事を等閑に過ごした後の久々の更新である。

折しも年明けからこっち、世間では体罰の問題が喧しく、
朝まで生TVでは毎度お馴染みの眠い議論がだらだらと交わされていた。

時代の問題にするのは、これは間違いだと思う。
たしかに時代はどんどん甘やかしの方向で流れてきたし、
その甘えにどっぷり浸かった世代がより甘えた世界を創りだしてきたことは事実だ。

昭和時代に少年時代を過ごした当の私だが、
当時既に自分ではオトナたちの、
「君のためを思って」「殴るほうもいたいのだ」という物言いは、
嘘っぱちだと知っていた。
思っていた、のでは無い。知っていた。
掛け値無しに、のっぴきならないそれは事実。
「叱る」事と「罰する」事は別の事だ。
そして「罰する」事と「殴る」ことは根本的に、決定的にちがう。
もっと簡単に言えば「叱る」と「怒る」は別の事であって。
彼らはただ単に個人的に「怒っていた」だけであって、
「怒り」の感情をコントロールできない片輪である。

さて、自分の経験をそこで振り返ると、
手ひどい体罰を受けた事がある。
時は1973年、秋の頃。
殴られた私は激しく流血した。鼻血である。
時代の事を言うならば、それほどの事があったにも関わらず
大きな問題にならずに沙汰止みになったということだろうか。

詳しくは次のアップで語りたいが、
その時40代の半ばであり、自己流の経験を過信していた、
戦争体験だけをよりどころに11歳の子供たちを上から目線で御そうとする、
筋金入りのアカであったこの女教師は、
今であれば大問題になるだろうこの事件を起こした後も
平然と勤務を続けていたし、もしかすると定年まで勤め上げたのだろう。
年金も恩給もしこたまもらった事だろう。

最早、存命ではなかろうが、彼女からの謝罪を私は今に至るまでうけていない。
まあ、上記の事件に至るまではいろんな顛末があった末ではあるのだが、
何の叱責もなく、無言のまま殴りつけたのは、
只単に激情に駆られただけの暴力行為であり、
その事で彼女自身のストレスが解放されただけのこと。
こちらに残された大きく深い傷は取り残されたままである。





敢えて実名を記そう。

その教師の名は
本望和代という。


そして詳しい顛末はあらためて。