神もサタンも干渉できないのが、人間の本心の自由だ。

そこに人間の尊厳がある。



内心の自由とは何か?


人間の自由と堕落

エデンの園に於いて、人間を堕落させたものは愛の力であって、本心の自由ではない。本心の自由は堕落線までエバを引いて行ったが、それを越えさせたものは愛の力であって、本心の自由ではない。

 自由とは、自由意志と自由行動をいう。


神は人間に自由を与えられた。

本心に従って行動する自由を与えられた。誰からも束縛されず、命令されず、本心の自由に従って行動する権利が与えられた。

もしも、命令されなければ行動できないように創られたならば、常に人間は命令によって束縛される存在になっていただろう。ロボットのような存在になって楽しい人間がいるだろうか?

 人間は自由を求める。大空を自由に飛べる鳥を見て、『鳥のように自由に空を飛んでみたい!』という想いが、飛行機を作り出したように、あの夜空に浮かぶ美しい月を見て、『何時の日かあの月に行ってみたい』という想いが、宇宙への関心、天体の動きの観察、星の動きの観察へと好奇心を掻き立てたのではなかったのか? 好奇心、自由な探求心があり、それを、探求すればこそ楽しいのではないか?

 物事の発展や発達の原動力となっているのは、まさに心の動きに゙他ならない。それは、間違いないことだ。それに異論を唱える人は居るか?

汎ゆる科学技術の発展もそれによるものだ。

心の自由な発露無くして進歩も発展もない。

 内心の自由を奪われる事は死ねと言う事と同じ意味を持つのではないか?

 「進歩も発展もするな!」と、言っているのと同じで、それは即ち「死ね!」と言っているのと同じことではないか?

 命令されたら死ぬ事ができるのか?死ねと言われて死ぬのは、つまり、虐待死である。虐めである。自殺しろ!死ね!と、言っているのと同じだ。


つまり、宗教団体に対しての解散命令請求は死ねということと同じことなのである。

 

国が宗教団体に対して解散命令請求を出すと言うことは、その宗教団体の発展を阻止し、その信仰を捨てよ!と言っているのと同じことなのである。


人間の発展の原動力は心の働きの自由な発想にあると。

それを止めれば発展も無く、生きて屍を晒せと言っているようなものだ。

これほど残酷なことがあるだろうか?


本心の自由によって信じるものを変えさせ、信ずるなと?

信じるものを捨てて、改宗するなら許してやろうと言っているようなものだ。


神は居ないのか?神を信じている者に、

「神を否定して、この世の習わしに従え」と言うなら、将にサタンがイエス・キリストに対して、『私を拝めばこの世の栄耀栄華、権力は思いのままだ』と試練したように、その試練の只中にあるのだ。

 

政治家は、サタンに屈するのか?

この世の栄耀栄華の為に、生きるのか?

政治家は、己の政治家生命の為に、宗教を捨てさせ、信仰心を捨てさせ、発展するな!大人しくしろ!と、一つの宗教団体に対して権力を振るい、圧力を掛けるならば、この国の未来は、決して明るくないだろう。未来は暗転して行くだろう。そして、その兆候は既に見え始めている。

 そう思わないとしたら、心が既に死んでいるのと同じだ。

 

例え、その宗教団体が間違った方向を取り始めていたとしても、少なくとも、日本の国の為に世界の為に働いて来た事は否定出来ない事実である。それを考慮に入れないとすれば。

 現統一教会が狂い始めたのは極めて残念至極のことであるが、…


嘆かわしい!嘆かわしい!

嘆かわしいこと、限り無し!


全てが分裂していくだろう。日本も、世界も。

阿鼻叫喚の地獄へと落ちて行くのだろうか?


人は何を信じて良いのか分からなくなる時………


上行菩薩が現れ…………

その時、信仰は燎原の火のごとく一気に燃え上がり………神の国は来るのか?

且つ又、不信の極まれる阿鼻地獄へと落ちるのか?

選択は人間の自由だ!