原理講論をに基づいて 

 徒然なるままに、書かんとする。金が先行する世の中に、反旗を翻して、ドン・キホーテよろしく、突撃するも、やはり、金の世の中だった。「地獄の沙汰も金次第」という。

しかし、果たして、本当に金が人を幸福にするだろうか?もし、そうであれば、一番金持ちの国であるアメリカが最も幸福な国でなければならない。しかし、果たしてそうだろうか?

 石油産油国のアラブ人は、どうだろうか?もしそうなら、犯罪は少なくなければならない。果たして、そうだろうか?

 現実は、そうではなく、返って、犯罪が多いという現実をどう捕らえればいいのか?

 それは、裕福だからと言って幸福である。とは言えないと言う結論になる。

 では、何が、人々を幸福に導くのか?

 モノが溢れる世の中で、私達は、何を求めているのだろうか?

幸福を求めて、今も、人は、生活する。前を向いて、前進しようともがいている。モノと、心の充足を求めて・・・。

 

 人は、自身が持っている欲望を満たすために、悪戦苦闘する。しかし、人間の中には、善と悪、義と不義の欲望がある。「個人の些細な出来事から、歴史を左右する重大な問題に至るまで、結局は、幸福になろうとする生の表現に他ならないのである。」原理講論より

 人間は、欲望を満たす時に幸福を感ずるのであるが、しかし、他人を犠牲にして、自分の欲望を満たす時に、人は、良心の呵責を感じる。それは、幸福とは言えない。心の満足があってはじめて、本当の幸福といえるのではないか?


 人間の心の中にある義と不義の葛藤、義なる欲望と、不義なる欲望、相反する二つの欲望を、内包して、絶えず葛藤しながら生きている姿が、我々の真実の姿ではないか?

 命の光を求めて、死の暗闇を押しのけてもがき苦しむ姿こそ、人間の偽らざる姿である。

このような相反する欲望を内包したまま、葛藤する姿は、矛盾を持った人間であると言わざるを得ない。

 キリスト教では、このような人間をして、堕落していると見るのである。

この矛盾を解決する道は在るのだろうか?堕落した状態にある人間を、如何に救うことが出来るのか?

 

罪を犯した人が、日曜日に教会に行って、礼拝を受ければ、罪は許されるのだろうか?

 知的側面からこの矛盾を捕らえれば、無知に陥っていると見ることが出来るのである。

人間には、心と体の両面が在るように、無知にも、内的無知と外的無知がある。