パリオリンピックで、
参加する日本人選手たちから聞かられたのは、感謝という言葉である。まだ若い選手からその言葉が出てくる。
勝って、感謝する選手。家族を含め、支えてくださった皆様に感謝する という言葉が、まだ、若い選手たちの口から出て来るのを聞いて、素晴らしいことだと思った。
まあ、負けても、このオリンピックという晴れの舞台に上がれただけでも感謝したいという気持ちがあれば、良いと思う。
我々は(私)とかく感謝の気持を忘れて、不平不満の心を持ってしまい勝ちな凡夫である。
つい自分中心に考え、ああだこうだと、今の結果に対して、不満を持って生活してしまう。
生きとし生けるものは皆、親がいて、ずっと続いている命である。
今を精一杯生きている。人間以外の生物は、常に天敵に食べられてしまう危険性を孕みながら生きている。自分の命が危険に晒されながら生きている。しかし、不平不満を言うことなく、その日、一日一日を精一杯生きている。
人間以外の動物には、感謝するという気持ちはないだろう。
本能のままに生きているのだが、人間だけが感謝という気持ちをもっているのだろう。
そこが動物とは違うところだ。
感謝の祈りを捧げる動物に出会ったことが無い。露天に浸かる猿を見たことはある(テレビで)が、感謝している風には見えなかった。
気持ち良さそうにしているだけであった…。
「万物の中で人間だけが最も貴い存在である。」
あの小さな蟻の行列を見て、思う。
誰から教えられた訳でもないが、蟻の社会の一員として、整然と隊列を乱すこと無く、動き回っているのを見ると不思議でならなくなる。
黙々と動いているが、生きる為の機能が既に備わっているし、一匹ぐらい死んでも、または、蟻の巣が壊されて、百匹くらい死んでも、血相を変えることなく(イヤ、慌てふためくか?)てんやわんやの大騒ぎをしながらでも、元の状態に戻してしまう不思議な生物だ。
まだ幼い頃、夏の日の木漏れ日の下で、白く乾いた地面の上を動き回る蟻を見ていた。列を成して、誰が教えたわけでもないが、黙々と動いている。足で踏めば即座に息絶える小さな生物を見ている私を、上から見ている大きな存在が居るのではないか?もし居たら私をどのように見るのだろうか?と、。
この大きな空からすれば、私はちっぽけな存在だ。この蟻のように。 その存在が、私を踏みつけようと思えば、私はすぐにでも死んでしまうだろう…と。
私は蟻を見て残酷な思いを抱くのを止めた。
今も、その思いは変わらない。
私も蟻と一緒で小さな存在ではないか。と思った。
共産主義は大嫌いである。
ポル・ポト政権下の虐殺!
毛沢東による文化大革命、紅衛兵の狂気じみた陶酔、その中で吊し上げられた人々の感じたであろう地獄。親さえも密告する子、安心出来ない環境、中国の本質は神のいない共産主義である。
多分、感謝する生活も無いだろう。強制的に党に感謝しろ!と言われても本当の感謝ではない。
自然に沸き起こる感謝が本当の感謝ではないか?