神が居ますならば
永遠 不変 唯一 絶対 なる者として存在されるはずである。
そんな神が、創造された被造物は、神に似ていないはずがない。
全ては神の実体対象として創造されたものである。
万物の中で人間が最も貴い。
万物の霊長である人間。
人間は神に似た。
神は、「我々の形に象って人を創造された。」
神は居ないという人
神に対する無知はどれだけ人生を不幸にするだろうか?
「無知からは如何なる情緒も生じ得ない。」
確かに、人は神が分からない。
神が居ますにも関わらず。
「神と人との関係は親子である。」
この世で最も近い関係は親子関係である。
何故それほど近い関係の存在が分からなくなってしまった…のか?
「神は二性性相の神である。」
神の二性性相とは、陽性と陰性の二性性相、性相と形状の二性性相の中和的存在である。
故に、被造世界の全てはこれらの(神の)二性性相をもって存在している。
仏教で言う、全ては仏性の現れである。
仏性とは何か?
宇宙の本質的存在である。それをどう表現しようと構わないが、その方は永遠不変、唯一絶対の存在である。
その方が、我々の親であると言う。
親子の関係が、分からなくなった人間の所業を、どのように見ておられるのか?
永遠にして不変、唯一絶対の方は、原理原則を離れては、何をもされることはないし、することができない方である。
非原理的な、原則から離れた人間に対して、どのように、その関係をとりもどし、親子の関係を再建しようとなさるのか?
原理原則を離れては、されないのである。
宗教的個人(より神に近い存在)を通して、関係修復の道を辿ってこられた。
しかし、常に無理解と、より優れた者に対しての妬み、非宗教的人間の迫害に晒されてきた。
それが歴史の常であった事は、不幸な事である。
アベルが打たれながら、カインを許し、犠牲の道を辿ってきたのである。
それは、聖書を紐解けば(比喩と象徴で書かれているので、多くの誤解や解釈の違いで分裂、分派の原因になっている。原理によって初めて明らかにされたことだが)明らかである。
今も、力でアベル的存在を抑え込もうとする状況が展開されている。
神を否定する共産主義と、宗教、信教の自由を保証する民主主義との間で、覇権を争っている。
「神と人間は親子である」という立場から見れば、人間は、人類は兄弟である。
兄弟同士の争いである。
その争いを終結するためには、親の愛で包み込む宗教的理念、超国家的、超民族的理念が必要である。
その理念を中心とした宗教的国家が現れなければならない。
日本では、政治と宗教が、牽制し合ってきたが、それは、宗教的理念が、政治に利用され戦争へと駆り立てはしないかという危惧からである。大戦の原因が、自分の民族が優位だという全体主義から来ているのであって、宗教は元より平和、博愛、平等、友愛等の情を啓発するものであるから、寧ろ、宗教と政治は共同の目的に向かって協力すべき関係なのである。
宗教なき政治、宗教なき社会は、殺伐とした社会に向かうしかない。
何故ならば、歴史は神との親子関係を取り戻そうとする摂理であったからである。その動きから遠のくからである。
今、日本は何処へ向かっているのか?
「神と人間は親子である。」と言う観点から見ると、そのような社会の構築を目指す神の願いから遠ざかっているような気がする。