
今日は浜松市天竜区二俣のヤマタケの蔵を出て
秋の一日を故郷の町の散歩に出た。
台風一過であの猛烈な暑い夏を忘れて涼風に吹かれて歩くと
秋野不矩美術館も秋の展示に替わっていた。

清竜寺の坂を上ると鐘撞き堂に着いた、
ここの梵鐘にはこんな話が残っている。
ここの鐘は、大東亜戦争の兵器として国にご奉公するために供出されてしまったのである、
嘘のような話が本当だった時代があったのだ。
昭和17年12月8日の開戦記念日に撞き納めの式以来この鐘撞堂の梵鐘は無くなった。
徳川家康の長子信康の廟を祀る清竜寺の大梵鐘でさえ戦争の兵器にしてしまった暗い歴史を
思い出させた。
[清竜寺のポーン]と親しまれたこの鐘は学童が毎朝登校時と正午を知らせていたそうだ。
その時を知らせる学童少年の中に[そーちゃ]の本田宗一郎さんもいた。
ある日腹が減った本田少年はとても耐え切れず正午の鐘の時間を早く鳴らして昼飯を食べてしまったという
有名な[時の鐘]の話である。
二俣の子供は元気がよかった。町中に子供の声があふれていた、
それが近代日本を築きあげた元であった。
今アベノミクスと言うが基礎の石垣のない楼閣にならなければ良いが…。
そう言えば私の成人式には本田宗一郎さんが講演に来てくれた。
その時の話の中で、
「私は欲しいものは買えるし、食べたいものがあれば世界中を飛行機で食べに行ける、が
私にもどうにもならぬ事がある、それは私でも時間は買えないと言うことだ。
今日、成人を迎えた君たちには十分な時間と未来がある」
との言葉を思い出した。
そんな[時の鐘」を思い出しながら清竜寺の階段を上がった

そして、今日も信康廟の前に来てしまった。
若き徳川信康にもっと生きる時間があったのならその後の日本の歴史は
変わっていただろうに…、と想いに耽る。