鵜殿氏は徳川家康のもとで二俣城主になると二俣郷が宛てがわれ、
城付き知行地であった。

では、二俣城は誰が作りなぜ二俣の名前がついたのであろう、
二俣出身の国学者 内山真龍(賀茂真淵の弟子)は[遠江国風土記伝]に、
[後柏原天皇の代、文亀年間今川家臣の二俣近江守昌長が築城]とある。

そしてこの地を二俣氏にちなみ二俣郷と名付けたのであろう。




二俣は徳川家康の領地になり、鵜殿三郎氏長が城主になって4年後、

武田信玄は家康との密約を破り再三奥三河、北遠州に侵入をくり返していたが
今川氏の領地だった駿河を奪取した武田氏は、元亀二年大井川を渡って
遠江に侵入して高天神城を攻撃した。

以後、遠江をめぐり徳川・武田の11年にわたる角逐は幕を切って落とされた。

これに危機感を持った家康は、二俣城主を鵜殿氏から中根平左衛門正照に替え、
青木又四郎貞治、松平善兵衛康安を加勢入城させた。

家康は信玄の来襲にそなえ譜代の武将を城主にしたのである。



元亀3年10月3日、信玄は2万の兵力を率いて甲府を出発した。
この軍事行動の目的は上洛説と遠江奪取説とあるが、
信玄は伊那谷を経て、その10日には静岡県と長野県境の青崩峠と
兵越峠を越えて遠江の国へ入った。

青崩峠と兵越峠(ひょうごえ)ともに、私が南アルプス前衛の山々に登山するたびに越える峠だけに、
武田信玄も遠州の風を感じ、上洛の野望に燃えた信玄の男の心情を感じるのである。

つづく。