浜松市天竜区の[ヤマタケの蔵]で壬生織・木綿手織教室の日、



私は久しぶりに[本田宗一郎ものづくり伝承館]から散歩に出た。
徳川家康の長男[岡崎三郎信康]の廟のある清龍寺から、
家康が信康に切腹を命じた二俣城へ行くことにした。

二俣城は徳川の領地になる前は今川領であったが
今川義元が桶狭間で織田信長に敗れて以来、
遠江の鎌倉以来の国人や土豪の多くは没落していった。

家康が遠江に入った時の二俣城主は今川家の松井宗信 
松井八郎であったがこの時城から逃亡したとされている。

二俣は徳川家康の領地になり、家康は永禄11年二俣城主に
鵜殿三郎氏長を命じた。

鵜殿氏は三河西郡城(蒲郡)の城主で、今川氏とは縁族関係にあったが、
家康は鵜殿氏の信用度を試し、鵜殿氏も自ら二俣城主を願い出た
と言われている。

徳川方は北遠州の要である二俣城を確保したのある。



私は縄文遺跡のあった皆原(壬生之芝原)を歩いた。
右に天竜川を見下ろし、左に二俣市街を眺めながら
二俣城址入り口に着いた。



私の故郷の二俣と三河西郡城(蒲郡市)が鵜殿三郎氏長氏によって
結ばれた関係があったとは‥、

古城の石垣にたたずみ、戦国時代にこの城にあった歴史に
想いを馳せる私であった。


(天正期に築かれた天守の石垣は野面積みで貴重な遺跡でもある)

つづく。