㊟成均館スキャンダルの登場人物による創作です。
ご注意ください。
「大監様、失礼を承知でのお願いでございますが・・・奥方様にお尋ねしたいことがあるのですが・・・。」
図画署の署長が静かにジェシンに声を掛けた。ジェシンは眉を片方きゅ、と上げたが、かまわない、と短く答えた。身分の高い人の妻女と直接会話をすることは、禁じられてはいないが、礼儀をわきまえたことではない。だが、夫が同席の場合は許可を取ればいいし、相手から話しかけられれば返答することは当たり前だ。だからジェシンも署長の問いに頷いたのだろう。
「奥方様。お辛いのならお答えいただかなくて結構でございます。弟御、キム・ユンシク様のことについてなのでございますが・・・。」
奥方ユニは、少し目を見開いた。ウジョンがそれについて分かったのは、署長の言葉に少し驚いて伏せていた目を上げたからだ。弟を失って悲しむ奥方のために、ムン・ジェシンという男は大臣の地位すら辞したのだ。そんな事情を知っているのに、話題に出した弟ユンシクの名に驚いたのだ。
ウジョンのうろたえた気持ちとは裏腹に、ジェシンは何も言わなかった。ユニも、見開いた眼のまま少し首をかしげる。どうぞ、とでも言うように。
ありがとうございます、と諾という意志にとった署長は口を開いた。
「奥方様は、キム・ユンシク様に学問や字の手ほどきをされたとお聞きしました。どのように、ご教授されたのでしょう。」
私は今署長として、図画署の運営に関わると同時に、矢張り後進を育てる立場におります、と署長は言葉をむすんだ。ユニは署長の問いをしばらくかみしめるように考えていた。その横顔をジェシンが静かに見守っていた。
「まず最初に申し上げておきたいのは・・・。」
とユニが放った言葉は、意外なものだった。
私たちは、必死だったのです。それしかありませんでしたから。
ご存じとは思いますが、私の実家キム家は、父を亡くして以来、赤貧と言えるほどの窮乏に陥りました。私ども姉弟がまだ子供だったこともあり、世間を知らない母一人ではどうしようもなかったのでしょう。その上弟は病弱でした。それでもキム家の長子、キム家を再興してもらうために弟に立派な士太夫になってもらわねばならない。そのためには弟の体を治すことが第一になりました。それでなくとも我が子、我が弟、元気になってもらいたいと思うのが人の情でしょう。弟の医薬のために金は費やされました。
両班のものにできることは何か、そう考えたとき、何が出来ますか?娘である私が出来ることは、その時は家族の面倒を見る事、そして周りが思うことは、金を援助してくれる家に嫁ぐことでした。けれどそんな足元を見られるような縁談にろくなものはなく、唯一の希望は、矢張り弟が育つことでした。私はたまたま・・・母が女人のすることではないと嫌がるほど本が好きで、知識欲がありましたので、四書五経もそれ以上も、父の蔵書で勝手に学びました。それが役に立ったのが弟の枕元での素読です。読み聞かせ、口元だけでも復唱させ、そして体調の良い日は実際に字を目で追わせて学ばせました。字は・・・私も独学なのでございますよ、署長様。父の遺した手跡。本の字。全てをまねして自らのものにしました。そして、弟には、同じことをするように申したのです。私は師にはなりえません。ですが、私の字は、筆写の仕事では通用いたしました。どちらかと言えば、かなりの高評価を頂けていたようです。それならば、私の師であった父の手跡、本の手跡をまねして鍛錬することが最もいい方法だと思いました。
そうなのですよ、署長様。私は弟ユンシクに字を教えたのではございません。字を学ぶための方法を示唆したのです。その後、実践し、身につけたのは弟自身です。署長様はお分かりなのではないですか?何かを身に着ける、成長するためには、確かに師や導く人が重要ですが、実際は、本人の成長したいという意志が一番大事だという事を。導き手はその思いを育ててやればいいのだと思うのです。ただ、参考にはならないと思います。なぜなら、私どもは、成長しなければ生きていけなかったから、学び、身に着け、学問と字を武器にするより方法がなかったのです。私が教えたのではないのです。境遇が、環境が、切実さを助長し、糧としたのでしょう。
「・・・参考にはならないかと思いますが・・・。」
と結んだユニに深く一礼した署長は、首を振った。
「いえ・・・逆でございますよ、奥方様。全くその通りだと今、心に刻みました。」
そう答えたのだ。