㊟成均館スキャンダルの登場人物による創作です。
ご注意ください。
ジェシンは草原に立っていた。
風が強い。そう思いながら薄暗い草原の向こうを眺める。そこには黒い軍勢がひと塊見えた。旗すら見えない。眠っているのだ。ここは国境が曖昧な緩衝地帯だった。だが、今回見えるあの軍勢が蹂躙した小さな村落はジェシンの国の民たちのものだった。何しろ、我が王はその村の娘の腹から出たのだから。分かっていたはずだ、敵方も。先年、敵方の王が変わった。そこからあちこちで小競り合いが起きている。国境は荒れていた。ジェシンは何度も出陣し、その小さな争いを納めてきている。しかし今回は許しがたい。命からがら逃げおおせた若い娘が泣いていた。皆殺し。家は焼かれた。皆その中にいるのに。外に出れば刺し殺された。娘は焼け落ちた壁の穴から親に押し出され、火の中を走り、川に身を投げたのだ。泳げた娘はしばらく流されたあと岸に上った。そしてジェシン達の軍を見つけて助けを求めた。その村まではまだたどり着けていない。この草原の向こうだ。ただ、風の中に、焦げ臭いにおいが混じるのが分かる。それはただ暖を取るためや食い物を作るためではない嫌なにおいがした。娘のいう事は本当なのだと裏付けられるほど。
ジェシンの率いる軍は今、三手に分かれている。ジェシンの後ろには横一線に兵が伏せている。しかしそれは見せかけだ。左右に一隊ずつ展開させ、林の中を密かに先行させている。ジェシン率いる中央の一隊がのろしを上げて突撃を始めたら、左右、出来れば背後に回った二隊が敵に襲い掛かることになっている。
「将軍。」
隣に立った部下が声を掛ける。夜明けはまだ遠い。だが空は真っ黒ではなかった。藍色に変わってきている。真夜中は過ぎたのだ。見張りはいるだろうが、人が最もぐっすりと寝入る時刻と言える。軍の朝は早い。その直前の深い眠りをつく。
「行軍の足を考えますと、もう四半刻程で目的地に二隊とも到着するかと。」
「そうだな。俺もそう思う。皆に伝えよ。その場で手足を動かし、温めよとな。戦いの最初の衝突で勝負は決まる。それに・・・今ここの隊が最も人数が少なく手薄だからな、一人一人が何人分も働いてもらわねばならない。」
相手が横から、もしくは背後からの奇襲に気付いてうろたえて態勢を崩す、または戦意を失うまで、この正面に陣取る隊は持ちこたえねばならないのだ。
「将軍がおられるだけで、兵たちの戦意は百倍でしょう。」
「バカ言うな。俺とてただの人だ。だが・・・はは。」
ジェシンがかすかに笑ったのを、部下は静かに待った。
「俺は生きて帰らねばならぬのでな。それも、逃げ帰ってはならぬのだ。戦って雄々しく返り、妻の誇りとならねばならぬのだ。それが俺が妻に差し出せる、唯一のものだからな。」
部下は黙っていた。そんなことはない、と知っていた。部下の知る将軍夫妻の仲の良さは、そんな殺伐としたものではない。細やかな情を通い合わせる、温かなものだった。これはこの将軍と呼ばれる雄々しい男の唯の強がりなのだ。自分がそうありたいと、妻に強い男として見てもらいたいと思っている、ただの強がり。けれどそれがこの男の強さであり、自分だけでなく部下たちも確実に生きて連れ帰らせる策略をもって、強引なだけでなく、勝ちを確信して戦う姿勢に通じていると知っている。
時がたち、兵たちは中腰となった。命じられた通り、それまでの間、手を動かし、足踏みをし、すねを揉んで準備をしていた彼らは、眼をらんらんとさせて槍を構えた。
見上げる。馬を林に繋いで避難させた将軍は、兵たちと同じく大地に立っていた。
「味方を信じて真っ向勝負を挑め。我が民を残虐にも焼き殺した奴らよ。容赦はいらねえ・・・自分たちの妻子が同じような目に遭わされる前に、非道な奴どもは皆殺しにする。」
低い声で下知をした将軍は、敵に向かって刃を抜いた。美しく弧を描く、大刀。
その刀が振り上げられ、そして敵方にまっすぐ振り下ろされた瞬間に、出撃の銅鑼が鳴らされた。
そして、舞台は暗転した。