㊟成均館スキャンダルの登場人物による創作です。
ご注意ください。
鐘は今夜も鳴る。誰の耳にも、同じように聞こえるはずだ、鐘は一つしかないのだから。
けれど、とジェシンは床の中で温かなユニの体を抱きしめながら聞く。あんなに何の感動もなく聞いていたただの時を知らせるだけの音が、今、こんなにも美しく聴こえるものなのか、と思いながら。
婚儀を挙げてから時は経ち、間もなくジェシンは王様から指名された仲間たちと共に清に留学する。王様に期待されている若き才能の一人として誉れある指名だ。勿論ジェシンに断る理由はなかった。なかったのだが、少々逡巡はあった。
ユニが懐妊したからだ。
本当は内々に話があったときには連れてゆく予定だった。だからこそ頷いたし、漢詩の故郷に行けることはジェシンにとっても喜びであった。だが、その一か月後、ユニの懐妊が分かった。
迷った。正直、行きたくなくなった。だが、ユニは行って来てほしい、とまっすぐにジェシンを見詰めて言った。寂しいし不安だし、何よりも赤ん坊の顔を最初に見せてやれないのが申し訳ないけれど。
「誇りに思える旦那様で父上様となってほしいの。全力で与えられた機会を掴んでほしいわ。」
それを言えるのは、自分には守ってくれる人たちが他にもいるからだ、とユニはほほ笑んだ。ジェシン一人分を、ムン家の両親、下人下女、そして実家の母、皆が請け負ってくれる。ユニはそれだけのものをジェシンから与えられたのだと言うのだ。
悶々としながらも、ジェシンはやはり清へ行くことにした。旅立ちは、ユニの懐妊が六月になるころだった。その頃になるとユニはつわりも収まり、活発に動いて家の者に叱られるぐらいだったので、連れて行ってもいいのでは、と思ったほどだった。だがこれは母や医師によって断固却下され、当たり前だと皆に呆れられ、産気づいたときに異国、という状態も確かに怖い、と思い直しての出立だった。
前夜の鐘の音は少し切なく響いた。けれど耳を澄ましていると、ユニがそっと囁いてきた。
大丈夫よ、大丈夫。私はいつだって旦那様に守られているのを知っているから。
子を宿した体は少し体温が高い。そのぬくもりを忘れないように、柔く抱きしめながら、ジェシンは出立の早朝までのわずかな時間を眠ったのだ。
まだ暗いうちに、見送られて屋敷を後にする。ユニも門前で手を振っていた。父母は屋敷の中で挨拶を済ませていたから、門前にはユニと下人下女が並んでいる。ユニを守るように下女二人が手をとり隣に傅き、下人が灯を煌々と照らし、足元に気を付けている。馬に乗り振り返ると、ユニの周りだけ灯に照らされて、神々しく輝いていた。もう何も言わなかった。床の中で誓い合ったから。お互いに健康でいよう。お互いに成長していよう。赤ん坊の両親として、しっかり大人になろう。だから今日はもう手を振るだけだ。
清でも鐘が鳴ることはあるだろう。だが、鐘の音は今や、ユニの言葉に成り代わった。大丈夫。大丈夫。ユニのその言葉に励まされ、赦されて、ジェシンは新天地で自らを鍛えるのだ。待っていてくれ、お前に、お前たちにふさわしい男になって戻ってこよう。添う気持ちを込めて手を振り終わると、ジェシンは前を向いて、もう振り返りはしなかった。
清について、先についていた親善使達に従って下っ端の仕事をこなし、そして彼らが去った後は清の政治を見聞きしながら書物に没頭した。何よりもその広大な都の在り方が、大国の力の強大さを見せつけていた。圧倒されながらも勉強し続けていた矢先、頼りが届いた。
生まれたのは男子。母子ともに健康。
そしてユニからの直筆の手紙も次に届いた。
生まれた子がジェシンに似ていると自慢し、自分が元気に回復したことを自慢し、そしてジェシンが元気かどうかが心配でたまらない、とそこだけが筆が細くなっているのが愛らしかった。鐘の音が鳴るころ、いつも赤子が泣くのだと。けれど聞きながら乳母から赤子を抱きとってあやし、一緒に聞くのだと。お父上様がお歌を歌ってくれているのですよ、と言うと、そのうちすうっと眠っていくのだと。
鐘が鳴る。鐘が鳴る。待っていてくれ。俺の代わりになってくれている鐘の音に嫉妬はしたくないが、今は仕方がない。だが、戻ったらお前たちを抱いて離さない。
ジェシンの耳には、インジョンの鐘の音が、清の広大な地を吹き抜ける風に乗って聞こえてくるようだった。