㊟成均館スキャンダルの登場人物による創作です。
ご注意ください。
三 周りを見よ
「ご子息に儂の指導は必要でしょうか。」
チェ・ヨンシルに静かに問われて、左議政という地位にいる父親は、ぜひとも、と答えた。地位のある父親と、野にいる無官の儒学者では本来は上座、客人の座に父親の方がいるべきなのかもしれないが、チェ・ヨンシルが父親より年齢が上であること、そして息子にこれから師と仰がせる尊敬すべき学者であるという事が父親を素直に下座に座らせていた。勿論チェ・ヨンシルも最初から上座を譲ろうとはしなかった。この書院は彼の学びの場であり、彼は学びの導であるのだ。書院の中ではチェ・ヨンシルが全ての主であった。
それを知っている人のようだ、とチェ・ヨンシルは対面している父親を観察していた。息子の方は既にこの書院に寄宿しているキム・ユンシクに託して敷地建物を案内させていた。なお、この書院にはあと二人、若者を預かっている。それを知っているかどうかをチェ・ヨンシルは父親に尋ねた。
「存じております。どの家の子息かも調べはつけています。」
「それでも当方にお預けになるとおっしゃるのですな。」
「はい。」
チェ・ヨンシルは少々どころかかなり鄙びた所に書院を構えてはいるが、出入りの貸本屋、かつての弟子たちなどが訪問してくるせいで現在の都の様子も割と把握している。都の様子というのはすなわち王宮の動きであり政局でもある。数年前の疑獄事件の際には胸を痛めた。聞いて冷静に考えるほど仕組まれたもので、おそらく幾人もの無実の者が連座したのであろうと思ったし実際そうだった。派閥争いも人を陥れ始めると悪い方にしか進まないと分かっていて人はなぜ、と静かな書院で静かに憤った。しかしチェ・ヨンシルは一介の儒学者。彼にできることは正しく儒学を理解した者を育て、その知識を正しく使えるようにしつける事だけだった。
今日から預かることになるだろうイ・ソンジュンという若者は、先に預かり今二月目になろうとしているムン家と対立派閥の子息で、どちらも勢力のある家だからこそお互いを知っているだろうと予想がつき、その上ムン家は数年前の疑獄事件で長子を無実の罪で死に追いやられた家なのだ。その原因となった対立派閥の長と言うべき家の子息であるイ・ソンジュンを受け入れるにあたり、そのことを父親はどう思っているのだろうか。
「わが息子は、この世の誰一人信用しておりません。それは親である儂も含まれます。」
チェ・ヨンシルの白髪交じりの眉がピクリと動いた。
「わが息子のことを申すにお聞き苦しいでしょうが、我が息子は『神童』と呼ばれるほど学問に優れているようです。確かに屋敷内で読み書きと簡単な素読をさせ始めてすぐ、これはきちんと師について学んだ方がいいと思うほどの進歩を見せました。学堂に入れたのは他家の子どもより少し幼い時期かと。それまでは一人息子故、屋敷内で大切に育てました。外に出し、本人も我ら親も驚いたわけです。あ奴がそれほどまでに学問が出来ると評価されるとは・・・。」
しかしそれだけなのです、と父親は表情を変えずとも吐き捨てるように述べた。
「友人など一人もできなかった。学堂の師には礼儀正しいが、敬意を持っているとはいいがたい。母親が不思議がり、一度尋ねたのです。すると、汚い心根に触れたくない、と申したというのです。」
学堂の師は、自らの教え子から秀才が出れば出るほど評判が上がる、学堂の価値が上がる、と声高にしゃべっていたという。似たような年の子ども達は自分を屋敷に連れ帰り父親に会わせようとうるさく誘う。その誘いの裏に大人の差し金があることを見抜けないほどの間抜けではない。年上の儒生は、隠れて悪口を言うくせに、彼の目の前ではにこにこと肩を叩いてくる。ついでに学堂に通う者たちの主派閥である老論が画策した疑獄事件について相手派閥を貶める事ばかり言う少年たちに落胆すら感じないというのだ。そしてそんな事態を招いている自分の親たちに対しても。
「書物の中にしか真実はない、と言っていると母親から泣かれ、儂も考えました。我らの生き方に批判の心を持つのはいい、だが、一人で思考の中に籠り、自らを殺してしまうかもしれない、吐き出す先がない限り。あ奴は語り合える仲間も、年上の相談相手も、かわいがる者すらいないのです。書物のみ。」
「しかしここはその書物に没頭する場ですが。」
「思う存分正しく学ぶことは必須でしょう。儂はそれ自体は否定しない。大いに学ぶべきだ。ですが先生、その学んだことに血を通わさねば生きていくことはできない。どの世界でも。先生は人を教え育てることで学ぶことを生かしておられる。血が通っている。儂はそう考えたのです。」
チェ・ヨンシルは目をつぶった。そして父親に言った。
「多少の悶着は起きるでしょうが、儂の判断でしか裁断いたしません。よろしいか。」
「死なねばよいと儂は思っております。」
その言葉に、チェ・ヨンシルはイ・ソンジュンという14歳の少年を預かることを決めた。