㊟成均館スキャンダルの登場人物による創作です。
ご注意ください。
さらさらと小さなノートにペンが走る。他にも観光客が行き来するからか建物の隅の方に行ったユニは、そこから動かなくなったと思ったら一心不乱にメモを取り始めた。時折虚空に目をさまよわせ、一点をじっと見つめたかと思うと、またノートにペンを走らせる。ジェシンは少し離れたところで見守りながら、何枚もデジカメで景色を切り取っていった。
途中からユニが無言になって行ったのは気づいていた。ユニが陶山書院を体中で感じようとしているのが分かったジェシンは、そっと気配を消していった。離れて歩くわけではないが、自然とユニの少し後ろから見守る形になって行った。柱にそっと手をふれてしばらく目をつぶるユニを、冷たい板敷きに座って、いるはずもない師匠の座るだろう席を見つめるまなざしも、ジェシンはそっと画面に納めた。戦乱の世に、書物を隠して守った厨跡を英雄のように眺め、儒生たちが寝起きした清斎を憧れのまなざしで見つめた。そして今、敷地の隅で夢中になってノートに何かを書き散らしている。
物書きという仕事をしている者の凄みに、ジェシンは近寄れなかった。
ユニが我に返ったのは、ジェシンを放ったらかしにして自分の世界に入ってから小一時間ほどだったろうか。流石にジェシンも画像は飽きるほど撮り、日が当たっているとはいえ空気がまだ冷たいこの春先の冷えを心配し始めていた時だったからちょっとばかり安心した。
「・・・。」
顔を上げたユニは、目を丸くしてジェシンの姿を無言で見つめていた。少し離れたところに立っていたから驚かせはしていないだろうが、とジェシンは不思議に思い、ひと段落か、と数歩近づきながら話しかけると、ユニは放心したようにつぶやいた。
「あ・・・先輩・・・。」
「誰だと思ったんだよ。」
苦笑して聴くと、ユニはまるで夢を見ているような瞳をした。
「一瞬・・・先輩が昔の人の格好でそこにいるように見えたの・・・。」
「どうやったらそうなるんだ?」
ジェシンは今日、動きやすいように、だが多少は仕事上だという事で、デニム姿ではない。白い厚手のカッターシャツの下に黒のタートルの薄手のセーターをのぞかせ、濃紺の厚手のジャケットを羽織っている。何の事はない、ユニならよく見る仕事中のジェシンの姿のはずだ。
「時代劇の影響かしら・・・先輩が儒生の格好しているように見えたわ・・・。」
そう呟くと、ユニはその幻を振り払うかのように頭を軽く振り立ち上がった。座っていたのは縁側の板敷きだ。寒くないか、と聞くと、大丈夫です、と返ってくる。
「私は贅沢。あそこで試験を受けた人は・・・。」
ユニは少し歩いて指を指した。そこには地方では珍しい科挙が行われた小さな堂が、川の向こうの小高い丘に佇んでいる。
「寒くて手が凍えそうな時でも、石畳の上に座って筆を走らせなければ人生が開けなかった・・・。そんな思いをしても実らなかった人の方が大勢いる。私は、今、自分のやりたいことが出来て、それで生活もできて、理解者も大勢できて・・・先輩が傍に居てくれます。」
胸をそっと押さえた。
「ここが暖かいと、何でも頑張ることができる気がします。」
春先の薄い日差しと、色を取り戻してきた景色が記録に残せない。それが悔しいほどにジェシンの目には美しく映った。デジカメに手も掛けられない、束の間の美しさだった。
ぐう。
ぱっとユニが押さえたのはお腹。ジェシンは大声で笑った。
「そりゃ腹もすくよな!」
昼時はすっかり過ぎていた。食事の時間も忘れてユニは陶山書院の空気に浸っていたのだ。
ジェシンは笑いながら顎をしゃくった。車にはユニがここに来る前にコンビニで菓子や茶を買い込んでいる。とんだドライブ気分だったが役に立つとは。
「夕飯に焼き肉食うんだろ。今はちょっとだけ腹を菓子でなだめ解こうぜ。どっちにしろ資料館に行きたいんだろ。」
そう、予定はまだ残っているのだ。はあい、と頬を赤くして走り寄ってくるユニの手を引くと、ペンを持っていた手はやっぱり冷たくて、ジェシンはしっかりと握りしめてジャケットのポケットに一緒に突っ込んでやった。