㊟90万hit記念。
成均館スキャンダルの登場人物による創作です。
作品舞台及び登場人物を江戸時代にスライドしています。
ご注意ください。
寧信の目的ははっきりしていた。殿に直接在信を文屋の跡継ぎにする許しを願うためだった。
「その方が話が早いので。」
と寧信は平然とした表情で言った。今回の陽高の帰国報告同様、嫌がらせのように文書での願いでなど握りつぶされかねないのだ。また、それは一部の賂の温床となっているので、その鼻を明かしたいという気持ちもあるという。
「兄上、先日はそのようなこと・・・。」
「まだ考慮中であった。陽高様のことがあるので、後回しで良いと思っていたが、我らの家のことも相手に対する静かな威嚇の一つとなる。勿論私がすぐにお前と座を替わるわけではない。今、父上と私が共に殿にお仕えしているように、お前も共に世に出て、親子三人で国に尽くす姿勢を見せることが重要だと思ったのだ。」
口を挟んだ在信だったが、陽高は何もこだわりないように大きく頷いた。
「寧信の判断に間違いはない。寧信が正しくないことをするわけがないのだ。そなたの行動に従おう。」
在信、覚悟を決めよ、と陽高に呵呵と笑われて、在信は会釈するしかなかった。
その日はすぐにやってきた。在信は寧信の付き添いとして城に上がった。周囲には寧信が足を引きずっているのが見えた。どうされた、と寧信と同輩の者が驚いて問うと、屋敷に迷い込んできて、追われ走り回った猫を踏むまいとたたらを踏んだ時によろけてひねったのだという。
「けれど殿にお久しぶりに進講させていただけるのです。殿を落胆させるなど、私にはできませんので。」
寧信がまるで子供の様な殿を心から可愛がり、また殿も寧信に安心した態度で接することを知っている城の者たちは、頷いて道を開けた。それにいくら細いとはいえ、寧信は大概の者より背が高い。その体躯を支えるのに、逞しい弟がついていても、誰も不思議には思わなかったようだ。
「殿、見苦しい姿で申し訳ございませぬ。屋敷で足をくじいてしまいました。」
「いたいのか?」
「痛みは少しございますが、立ち歩く時だけでございますので、殿とお話申し上げたくこの姿で参上してしまいました。お許しください。」
「いたいのはかわいそうだ。くすりはのんだか。よはくすりはにがくてきらい。」
「私も苦い薬は苦手でございます。けれど薬を飲まなければ殿とお話できませんから我慢をいたしましたよ。」
「そうか。えらい、えらいの、やすのぶは。」
在信は、介添えのため特別に許されて広間の隅に控えていた。まるで幼児と父親のような会話に、殿と直接は初めてに等しい在信は、内心驚愕していた。だが、寧信との会話に素直に応じるさまは、殿の心根の可愛らしさを感じられてほっとしている自分もいた。自分の主人たる殿を憎みたくはない。今回の後継者騒ぎに、その周囲のたくらみを憎みこそすれ、それ以上の負の気持ちは持ちたくない。狭い国だ。しこりが残れば残るほど生きにくい。どちらもだ。
「お褒めに預かりましたところ恐縮ですが、殿、本日は智についてお話申し上げるつもりで参りました。少しお勉強をいたしましょう。」
「うん。やすのぶのいうことはよくわかるからすき。」
それから半刻ほど、寧信は丁寧な言葉選びで『智』について講義を行った。
『智』とは漢学において道理をよく知っていること、知識豊富なことを指す。しかし幼子のような殿に道理などは理解できないのでは、と思ったが、寧信はわかりやすい例を引いて、にこにこと殿に教えていた。私も知らないことは沢山あるのです、殿。そちはかしこいぞ。ありがとうございます。けれど世の中のことを全部は知らないのですよ。そうなのか。ではだれにきくの。知っている人にです。知らないことを隠して恥ずかしがっていては誰も教えてくれなのです。例えば殿は、殿がいつ御膳を召し上がるかよくご存じでございますね。おお、ちゃんとすずがなる。そうなのですか!ですが私は今殿にお聞きしなければ鈴の合図があることを知らなかったのです。知らんふりするところでした。そうか。そうしたらごぜんがたべられない。そうなのです。すかせた腹を抱えて我慢しなければなりません。それはいやだ。そうです。腹がすいたと音が出るのも恥ずかしいですね。ですから聴いた方がよいのです。その時は恥ずかしくてもあとで沢山恥ずかしいことにはなりません。そうか、よはしらないことをやすのぶにたくさんきいていいのだな。はい。いいのです。ではやすのぶがしらないことはだれにきく。知っている人を寧信がお探ししましょう。そして一緒に教えてもらったらよいのではないですか。そうか。やっぱりやすのぶはかしこい。わからないことはきく。よはおぼえた。
表情をくるくる変えながら寧信と話をする殿は、17歳の幼児ではあったが、それでも家臣の話を素直に聞く、穏やかな在信の君主に変わりなかった。