㊟90万hit記念。
成均館スキャンダルの登場人物による創作です。
作品舞台及び登場人物を江戸時代にスライドしています。
ご注意ください。
少し迷いはあった。在信はどちらかと言えば仕掛けられてから動きを合わせることが多い。稽古で育てたその自分だけのやり方というのはやはり勝負の流れを自分の方に持ってくるのに都合がいい。だが、今、相手から陽高と怯える下男の老爺との距離をとりたかった。離れてしまえば、たとえ劣勢になっても陽高はちゃんと逃げられるだろう。そこまで想定して、在信は地を蹴った。
負けるつもりなどない。相手の流派も聞いていない。だが、なんのために戦うか、その目的があることの強さを在信は知っている。教えてもらった。陽高の信念にひざを折ったあの日に。由仁と陽高、そして金本道場の名誉のために師匠の前に立たせてもらったあの夜に。
たちまちに間合いに入る。相手が剣を正眼から寝かせたのが見えた。在信は頭上に剣を振り上げて走り寄っているのだ。当然だろう。自分が冷静に相手を見ているのが不思議だった。剣の動きがはっきりと見える。何ならもう一人の剣客が構え直したのまで見えた。すべてが緩慢に見える。はっきりと。寝かせた剣がすうっとがら空きの在信の胴に伸びてくる瞬間すら見えていた。
きーん、と金属音が響き、ああっと叫び声を上げたのは剣客だった。在信の剣が左胴に伸びてきた剣客の剣を巻き上げたのだ。上段から素早く振り下ろされた在信の剣は、相手の剣を上からたたくと見せながらわずか外側から相手の勢いも使って滑り込み、下からはねあげた。方向を同じくしたその力に剣客の握りは耐えられず、巻き取られるようにその手から剣は抜き取られていった。道を外れた草むらにどっと落ちた重い音を聞きながら、在信と剣客は静止していた。背の高さは同じぐらいだろうか。にらみ合うように顔を突き合わせているだけのように見えるが、その体の間には抜身の大刀があり、刃は剣客ののど元にぴたりとつけられていた。
「殺せ。」
「ご命があるのでな。もう少し生きてもらおう。」
短く交わす会話を、棒立ちになってみていたもう一人が後ずさるのは見えていたが、この剣客一人を抑えるのに精いっぱいで、逃げてくれるのならその方がいい、と在信が思った時、
「在信!悪い!」
遅くなった!と怒鳴りながら走ってきたのは、朝木道場の師範代だった。
「途中で、ばあさんが転んだんだよ・・・目の前で。すぐそこだっつうから負ぶって家まで送ってたんだよ。そんなに時間を食ったとは思ってなかったんだが、すまない。」
在信は、朝稽古の時に師範代に頼みごとをしたのだ。今日供をして墓参りと法要の相談に正眼寺に行くが、嫌な予感がするのだ、と。師範代は笑いはしなかった。そうか、と短く答えると、じゃあ散歩にでも行くことにしよう、と言ってくれたのだ。先生には、と今更ながら在信は聞いた。道場がどちらの派閥の味方もしないと聞いたところだった。いや、違う。道場に来る弟子はどちらの派閥かなど関係ない、と言ったのだったと思い返して、それならばこの願いはその意志に反するのではないか、と思ったのだ。だが師範代はあっけらかんと言った。お前の勘所が当たるかどうか興味があるから確認してきたいと申し上げるさ、大丈夫だ。そして在信が朝稽古を切り上げて陽高の屋敷に戻る前、目配せして笑った。諾、だとすぐに理解できた。
背後から現れた師範代にうろたえた一人は、泡を食って草むらに走った。追おうとした師範代を短く呼ぶと、追わずにまっすぐに在信のところに走ってきた。なかなかに離れられなかったのだ、この剣客から。喉元に当てた刃は、少し皮膚を破っていた。だが、油断なく体の力が入っているのが分かる。脇差を抜かれる隙を与えないために、在信も力を抜けなかった。師範代が駆けつけて剣客の腕を後ろ手にひねってくれたので、ようやく剣を引くことができたのだ。
「あんた・・・どこか痛めてるな?」
改めて見ると、ほつれた小袖に野袴はよれていた。総髪はきちんと結っているが、頬はすさんだ瞳と同じく削げて荒々しい。そして、確かな太刀筋には見えるのに、動きが遅い。
「放っておけ。古傷がつって、剣の道をあきらめたざまが今の姿だ。お前たちも気を付けるんだな。」
刀の提げ緒で後ろ手に縛められた手首が、異様に白く見えた。