㊟成均館スキャンダルの登場人物による創作です。
ご注意ください。
次の日になっても、ジェシンの脳裏からユニの字は消えずにいつまでも残っていた。本の筆写のため、すべて楷書で書かれた文字。だがその文字は文として並んでいるもの。その文の流れのままに、見えないはずの筆の流れが分かるぐらい『流麗』という言葉しか思い浮かばない字だった。きちんと止め、払われている一画一画のはっきりとした楷書なのに、角ばった感じがしないのは墨の色合いだろうか、止の部分の筆の置き方だろうか、それともその置いた筆が次の一画に移るその最後の筆先の名残が墨の濃淡にかすかに残っているからだろうか。
正直、字の巧拙にこだわらずに生きてきたジェシンにはわからない。だが、その字で気に入りの漢詩の一節が書かれたものを壁に飾れるなら、どれだけその軸を見つめていられるだろう、そう思うほどの達筆だった。
その日一日課題は一つも仕上がらず、ユンシクとお互いに本を読んでいる時間の間、ジェシンはユニの筆跡を夢想して終わった。そして次の日、ユンシクが午睡に入り、ユニが洗ったものを片付けにやってきた機会を捕まえて、話しかけてみた。
ユニには決して字に関しても師はいなかったはずだ。両班の子女のたしなみとして読み書きは必須ではあるが、ここまで字の上手さを求められることは、それこそ書に関して一家言ある者の子女でない限りありえないだろう。彼らの父親は学者ではあるが書家であるとは聞いていない。
「字、でございますか?私は一通り書けるようになりましたら、後は本を筆写することで様々な字体を学びました。」
「様々な字体、というと・・・?」
ユニは首を少しかしげると、ユンシクが夜に使っている小机を部屋の隅から運んできた。簡易の筆に墨壺のふたを開けて墨を含ませると、ユンシクが筆写するために置いてある紙を一枚机の上において、何か短文をおっしゃって、とジェシンに頼んだ。
「・・・『春宵一刻値千金』・・・」
ユニは目を少し見張ると、かすかに頷いて紙に筆をおいた。
楷書、と言いながら書いた文字は、それこそお手本のように形も大きさも整っているもの。そして次に。
「行書・・・草書も書かれるか・・・。」
ジェシンの前には同じ分が5行並んでいた。最初に書いた手本のような楷書の7文字が、同じ大きさの文字で少しずつ崩しながら並ぶ。すべてが美しく、最後の草書など、まるで清流が流れているかのように細く太く墨が文字をつなげていて、それでいて一文字一文字がきちんと読めるのだ。
「手本は、本の字でした。最初に読んだものは四書でしたので、それこそ手本のようにきちんとした字が並んでいました。それらを写すことで、字も多く覚えたと記憶しています。大体は楷書で書かれていましたが、時に見つけた筆写本の中には行書体のものもございました。私はその字を・・・書きたい、と思いました。ですのでその本を写すときにはそっくり真似をして・・・書きました。多分今見返しましたら、拙い字だと思います。父の書庫から本を探すうちに、いくつか漢詩の本であったり、軸なども見つけました。それらには、様々な書体が使われていましたので、それもまねして書けるようにいたしました。母の書く字と父の書く字に、個人として、というよりも男女の違いとしての書体のちがいがあることにも気付いて、父の字、母の字をまねして書き、男女の違いも多少かき分けたりも致しました。」
ユニはそう言って、また7文字を二行書いた。一つは太く角ばった行書体。もう一つは線が細く、はねがまるで縫い針の先のように繊細に書かれたものだった。確かに、どちらが男のものか、と先入観なく聞かれたら、確実に前者の方をさすだろう程に違いがある。
「・・・俺はそんな風に文字を見たことがなかった・・・。」
「私は、読めるなら書けるなら、何でもよかったのです。それに習字の練習には両親も何も不満はなかったようで、堂々と机に向かっていられましたし、ユンシクのために写本を作っていると言えば、何も言われませんでした。」
ずるいでしょ、と肩をすくめるさまが愛らしく、けれどジェシンはその紙にくぎ付けだった。
この字で俺の詩を書いてくれたら、そんな風に思ってしまう。
そう考えに耽るジェシンに、ユニも紙を見つめながら聞いてきた。
「この言葉は、蘇軾の漢詩の一部でございますよね・・・どうしてこの言葉をお選びになったのですか?」
ジェシンは我に返って、はた、と考え込んだ。