㊟成均館スキャンダルの登場人物による創作です。
ご注意ください。
その日、ジェシンは珍しくユニより先にバーに着いていた。マスターに声をかけてスタジオに一人上がり、着ていたジャケットをかばんに無造作にかけて、腕をぐるぐる回した。
なんだか、すごく調子が良かったのだ。
体調は・・・頑丈なジェシンだって仕事に追われる週末になると、多少疲弊する精神に引っ張られてくたびれたと思うときだってないことは、ない。だが、その日は心も解放されたように朝から軽く、天気も良かったせいか気分はさらに上がり、仕事も重たい案件がなかったから定時には部内皆でさようならとオフィスを閉めるという、めったにない順調な日。飲みの誘いも断って、ジェシンはバーに一目散に向かったのだ。いつもならユニの方が会社がバーに近いため、ジェシンの方があとに着く方がほとんどだ。
同僚と話してからジェシンの曲への取り組みは肩の力が抜けた。最初に聞いたオリジナルの音源のイメージが強すぎて、あんな風に演奏しなければ、という強迫観念があったことは否定できない。格好良かったのだ。最初に映画を観てしまったのもあった。若い兵士の役だった歌手は、歌うシーンで自然に歌に入り、盛り上がるにつれてその表情はいたずらっぽくなり、きゅ、と片頬を上げて、チャーミングに笑顔でスウィングしていた。歌っている曲の歌詞は決して明るい内容ではない。だが、パーティという場で、バックにバンドのにぎやかな音とリズムが響く中、ただそのリズムにすべてを浸せる、それが目に焼き付き、耳に残ってしまっていた。短い、ほんの数分のその映像に、ジェシンは囚われてしまっていたのだ。
ジェシンが誰とスウィングしたいか、そんなのたった一人に決まっていた。あの歌手になりたいわけじゃない。ジャズの演奏家になりたいわけじゃない。でも、歌に全身を浸して揺れるユニと一体になって演奏をしたい。シンクロして、リズムにただただノって、胸の高鳴りが重なるかのような高揚をユニと。自分がそうしたいだけなんだ、そう思ったら肩の力が抜けたのだ。
弾き散らした。この曲をマスターしたら、なんて欲は捨てた。その日の気分で、手元にあるピアノスコアで気分に合う曲を弾いた。ユニがどんなふうに歌うだろう、と想像しながら。弾いてみて、最初にこだわった二曲もより気に入ったが、他にもなかなかいい、と思える曲が増えた。題名がそれこそ『Recipe for love』なんて曲は、ユニが歌うのが耳元で聞こえるような気がした。曲を通して軽く明るいこの曲。元から前奏、間奏ともにピアノが主役になっていて、歌詞の言い回しも、表向きは古風でかわいらしい。ただ、うがって訳せば、ちょっぴり大人の恋愛風景だと分かるのだけれど。そんな歌を、ユニがピアノを弾くジェシンを小首をかしげながら歌う、そんな想像をするだけでジェシンの指は走った。
だから、気分のいいまま、腕を回して温めたジェシンは弾いた。その曲を。もうスコアも要らなかった。というか、カバンの中には今夜のライブの曲のスコアしか入っていない。家のピアノの上に全部置いてある。少しぐらい間違ったってよかった。気分が良かったから。慣らしに自分のお気に入りの曲を弾いて何が悪いんだ、って感じだった。それに、すごく上手く弾ける気がしたのだ。いける、という感覚が心地よかった。最初に置いた指が立てた音。そこからいつもと違う気がして、ジェシンはカッターシャツの袖をまくり上げた。ネクタイは既にとってしまっている。浅く椅子に腰かけて、目をつぶって脳裏に浮かべる。傍にユニ。いたずらっぽい笑みを浮かべて、マイクを持って。ジェシンに恋の仕方を教えてくれる可愛い小悪魔の彼女。
勢いよく弾いて、満足して。そして一息ついたとき、ユニがスタジオに入ってきた。ちょっぴり頬が赤いのは気になったけれど、すぐにストレッチに入ったので、ジェシンもかばんからライブの曲のスコアを出した。その日のライブも大成功。ピザをほおばるバーの閉店前に、隣に座ったユニがジェシンの肩を突っついた。
ねえ、歌いたい曲が、あるの。