㊟フォロワー様500名記念リクエスト。
成均館スキャンダルの登場人物による創作です。
ご注意ください。
ジェシンは気づいた。今、自分の姿は濃い霧の渦の中にあると。そして目の前は開けている。霧は漂っているが、うっすらとだけだ。奇妙に、わずかな行き来の跡が残る山道だけ霧が薄い。いや。
山道だけが霧に囲まれている。
藍色の空は思ったよりも明るく、空の端のその色が薄くなってきているのは夜明けが近づいていることを教えていた。夏だ。夏至は過ぎたが朝は日が昇る前から空が明るく朝を告げる。丑の刻はとうに過ぎたのか、と刻限の勘が狂ってしまったジェシンは空を見て判断し、山道をにらんだ。
薄いとはいえ流れる霧を割いて現れたのは明らかに頭髪が清の風俗である男たち。顔は霧でぬれるのを嫌っているのか見られないためか、鼻から下を手ぬぐいで覆ってしまっている。荷車をひく男二人、脇を歩く男二人。後ろから一人が長い棒のようなものを携えて、石くれの転がる足場の悪い山道をゆっくりと下っていった。
ジェシンはふらりと立ち上がり、その後を追った。道など一本しかない。振り返ると自分の後ろは真っ白だった。空すら見えない。だが前だけははっきりと見える。奴らの後ろ姿は。
ぎし、ぎし、と音を立てて荷車は停まった。さらに嫌な音を立てて、引いていた二人と脇を固めていた二人で狭い山道で方向転換させている。荷を乗せたらそのまま山を越える気なのだろう。そして彼らは、回転し終えて顔を上げ、呆然と立ち尽くした。
ユニと少年たちは、丑の刻を回ったころに商人に起こされていた。ユニは眠れてはいなかったが。どうもね、お山の様子がおかしいんだよ、天気が崩れるとここから動けなくなるからね、ちょっと違う道を通って里に出よう。そんな風に言う商人はどこか落ち着かない様子だった。それはユニも同じだった。勿論万が一助けてもらえなかったら、という恐怖はないことはない。自分が一緒にいるこの男は悪者なのだ。だがその恐怖とは別に感じる空気の重さのほうが怖かった。そして少年たちはもっと敏感で、誰かが怒ってるよう、怒ってるよう、と目をこすりながらユニに縋り付く。けれど彼らはユニと商人しか頼る人はいないのだ。着の身着のまま休んだそのままの状態で、少年たちはユニの手を握りしめながら小屋の外に出た。
「・・・えらい・・・霧だねえ・・・。」
商人がつぶやく。
「迷いませんか?」
とわざとらしくきくユニに、慣れてるんでね、とにやりと笑って、離れちゃだめだから、と一人の少年の腰に縄を回した。
「何をなさるの?!」
「何をも何も、あぶねえからね、迷子紐だよ。あんたたちはそいつとしっかり手を繋いでおいておくれよ。」
とうとうユニに対する『お嬢さん』という呼び名さえ消えた。あんた、ねえ、とユニは奥歯を噛むと、縄を腰に打たれた少年を右手に、もう一人を左手にしっかり引き寄せて、引っ張られる少年と引っ張る商人のあとをついて山を登り始めた。
「遠いの・・・?」
「黙ってついてきな~遠かねえよ、ほんの何歩かで楽できるぜえ。」
下るのかな?と無邪気にユニに手を引かれる少年に、ユニは何も答えてやれない。商人が嘲るようにからかったその言葉に腹が煮えて煮えて。こうやって今までの子供たちも若者、娘たちも攫って行ったのだと、売り飛ばしたのだと分かって。
「おとなしくしとけよ・・・怪我したくなかった・・・ら・・・。」
さらに嘲る商人の言葉尻がすぼんだのと同時に、ユニは背後に人の気配を、それも何人もの気配を感じた。振り向こうとした瞬間、ユニは目を見開いて足を止めた。商人も止まっていた。
薄い霧の中からゴロンゴロンと転がり落ちてきた男が二人。狭い道ゆえ、脇の木にぶつかり止まったがそれでもなお尻もちをついたままあとじさる。一人は声も出ず、一人はかの国の言葉をつぶやいていた。
「・・・なんだい?!何があったんだい?!あんたたち!こんなところで姿を見せられちゃ…?!」
どうだっていうんだ、という声とともに、商人と少年を繋いでいた縄が剣で叩ききられた。反動で転がりそうになった少年をユニが受け止め、そのまま二人を抱きしめる。三人を守るかのように二人の武官がすいと傍に立ち、動かないように忠告をしてきた。
「あ…んたたちはどなたですかい?!今から商用なんでね、い、行かないとならないんですけどね・・・!」
「無理だな。お前の取引相手はほれ、そこで役に立たなくなってるじゃねえ・・・か・・・」
商人を後ろ手にねじりあげて威嚇した武官も、泡を吹いて腰を抜かした清の男たちも、そしてユニたちも見た。
見上げた先にぶら下がる一人の男の姿。霧が男を食らおうとしていた。