㊟90万hit記念。
成均館スキャンダルの登場人物による創作です。
作品舞台及び登場人物を江戸時代にスライドしています。
ご注意ください。
犬伏敏春、通称‘敏(びん)‘は大上段に構えた。それ自体が剣に不慣れなことが分かる。大上段は胴ががらあきになる構えだ。剣に自信のあるものが相手との体格差を鑑みて構えるものだ。例えば今のように、明らかに在信に腕前は軍配が上がり、その上在信のほうが圧倒的に大兵だ。在信がすれば威嚇にもなる構えだが、在信より背もかなり低い敏が構えると、はた目には滑稽にしか見えない。
案の定、敏の後ろで銀之丞が笑いを漏らす息の音が聞こえた。敏はその呆れも入った笑いさえ聞こえていないようだ。刀を振り上げた腕はブルブル震え、足はじりじりと土にめり込むほどに踏みしめている。なのに腰は高い。安定がない。刀は重いのだ。鍛錬の足りない上腕はすでにその重みを支えきれず、その腕を支える肩も、腹も、足腰も動きがばらばらだ。
菅野よ・・・教えるならちゃんと教えろよ・・・時がなかったのなら、へたくそのままだってほんとのこと言ってやれよ・・・。
「文屋、手足は残せ。」
背後から金本先生の低い声が聞こえてきた。在信の得物は木刀だ。切り払うことはない。だが、骨など簡単に折ることができる。肩、腕、足は狙うなということか。だが、長々と相手するのも面倒だ。
「来い、敏。」
腹の底から出した在信の声に、おびえたように大げさに肩をすくませた敏は、たたらを踏むように足踏みをした後、刀の重みに引きずられたように向かってきた。
払う必要もない。
振り下ろすというより重力に負けて落ちてくる刀の軌道は、鍛錬で竹刀の動きの速さに慣れた目はゆっくりに見える。在信は出していた右足を踏みなおすと体を滑らかにその右足に乗せた。
右足に体の芯を乗せた在信の腰と同じ位置から、正眼に構えていた木刀がしゅ、という空気を切る音と共に滑った。伸ばし切らない肘の先にある木刀がとらえたのは、敏のがら空きの左胴。
ドッ、という鈍い音が鳴ると同時に棒立ちになった敏は、すでに中途半端な位置まで落ちていた刀を取り落とした。そして、踏ん張ろうとした足は痛みに耐えられず、そのまま崩れ落ちた。
「あばらが二、三本ぐらいだろ。半年もすれば治る。」
姿勢を戻した在信は、敏が取り落とした刀を拾って後方に滑らせた。刀は金本先生の右足もとで止まり、拾い上げた先生が静かに玄関の表にある甕の上に横たえた。剣をたしなむもの。刀を転がしておきたくはなかったのだろう。
ずる、ずる、と立つこともできず、左わき腹を片腕でかばいながら、体を丸めたまま尻で後ずさる敏。呆然と戦いのあっけない幕切れを見ていたもうひとりの若侍が、われに返って泡を食って敏を介抱しようと駆け寄った。
「お前は敏よりも腕はたつのか?」
再び仁王立ちになった在信に見下ろされて、数歩の距離はあるとはいえ、その若侍はおびえた。頭を必死に振り、敏をとにかく引きずる。いてえ、いてえよ、とうめく敏を見て、さらにおびえた。
「あ・・・あんたにかなうわけないって知ってますよ・・・菅野さんと並ぶ道場の竜虎だって、俺たちは見てたんだから・・・。」
在信より数歳年下の者たちにとって、朝木藩内唯一の道場でしのぎを削っていた在信、菅野、俊之介は伝説なのだ。前後何年かは、目立つ手練れは出なかった。在信たちの年代が、目立つほどに腕が立ったのだ。
「じゃ、敏をみてろ。俺はそっちの人と話をする・・・野間殿、で合ってるかな?」
木刀を右手に持ったままだらりと下げた状態の在信が問いかけると、あ~あ、という顔で敏を眺めていた銀之丞が、おや、という顔で笑った。
「お調べはついてるようだね。なかなか優秀な忍びがいるってことか・・・。ああ、新宿で一度お会いしたからねえ、あそこから足がついたかな?だがあんたも女連れだったよねえ、すごくきれいな娘さんだったねえ。」
「お互い様だ。てめえもえらくあだっぽい相手だったじゃねえか。」
「おや?涼香姐さんの色香が分かるなんて、野暮天じゃないんだね。時々ああやって俺を見せびらかすのが好きなんだよ、姐さんは・・・女っていくつになっても可愛いよな。」
そんな戯言を交わしながら、銀之丞はするりと在信の正面に立っていた。
後方から討ち取ったり~、と叫ぶ師範代の声が上がる。おやまあ、と肩をすくめる銀之丞におびえは見られない。
「さて、頼まれた仕事をしますよ。あんたを動けなくして、あんたのお連れの娘さんをちょいと借りることになってたんだけど、娘さんを運ぶ人がいないじゃないか。俺は女に乱暴なことはしたくないんでね、俺の頼まれたことしかしないよ。」
転がる敏にからかうように言い捨てたとたん、銀之丞を包む空気が殺気に変わった。