㊟90万hit記念。
成均館スキャンダルの登場人物による創作です。
作品舞台及び登場人物を江戸時代にスライドしています。
ご注意ください。
次の朝、いつも通り早朝から道場を拭き清め、激しく打ち込みげいこを相手を変えて行った在信。朝稽古の締めは、師匠である金本先生が在信を指名したので、周囲が見守る中、道場の真ん中で立ち会うことになった。
なんの条件もなく、ただ指名されて受けたもの。静かに見合った二人は、ぴたりと正眼に構えたまま動かなくなった。
無になるということは難しい。得物が真剣であれば、いや木刀でも骨は砕くことができるし当たり所によっては死に至るが、その刃が自分の身に襲い掛かる恐怖を感じないわけはない。どんな剣客であろうとも。竹刀であるからこそ、これが立会稽古であるからこその境地であるといわれてしまえばおしまいだ。けれど、優れた剣客は、得物がたとえぼうっきれで、相手が真剣だったとしても、ただ相手の動きを『感じる』ために胸の中の雑念を拭い去り、いわば空っぽの頭で対峙することができるという。
在信はそんな剣客ではない。自覚もある。どこの道場に行っても師範代、または上位の弟子に入ることができるほどの腕はあるが、そこまでだ。陽高と初対面の時の立ち合いがそうだった。上背も体格も在信のほうが圧倒的に勝り、剣の腕前も、技術的には在信のほうが上だろう。けれど、負けた。陽高の信念に、気迫に精神が押されたのだ。
今回のお家騒動で、在信が剣を抜いて戦わなければならない場面があるかどうかは未知数だ。だが、相手は剣を扱うものを雇っている。最後は脅しあいになるかもしれない。きれいごとでは終わらないのはわかっている。けれど本当はできるだけ剣は抜きたくない。
お家騒動、なのだ。相手は同じ家中の者たち。騒動が終わった後も、同じ土地で生きていく。同じ役目につくものだっている。今だって派閥にわかれてはいても、共に働いているのだ、みな。在信はまだ修行の身で無役だが、俊之介は江戸藩邸でどちらの派閥の者も部下として使わなければならない身だ。どんなにやりにくかろう、と思う。だからこそ、少しでもあとくされの少ないようにしたい。一番大事なのは、血が流れないことだ。
これは俊之介とも話をした。きれいごとだ。けれど、力は尽くしたい。尽くさなければならない。ただ推す人が違っただけで、隣に座って筆を持って書類をさばいていた同僚に恨みなどはないのだ。恨みを増やしてはならない。
金本先生にそんなことは一言も言ってはいない。家中の争いは関係のないことだし、迷惑をかけるかもしれない関係で事情は知らせているが、本来は藩外の誰に言うことでもないのだ。お家騒動は、恥だ。だから、事実だけを述べて、頭を下げ、それでも弟子だという暖かな励ましを受けた、それだけなのに。
先生の静かな目を見て立ち会っていると、すう、と在信の中の波だった感情が凪いだ。肩の力が抜け、腕の力みが取れ、なのにどっしりと体の中心が安定した。どちらにでも足は動き、どんな手を出されても在信の竹刀はそれをはじくことができる、そんな画が見えた。おごりではない。勝手に脳裏にひらめいたのだ。
切りたくない、切れない、という弱気でも雑念でもない。どこから来たって弾き飛ばしてみせる、という自信。在信が初めて感じたその全能感。おごりではない、過剰な自信ではない。
来い。今の戦いも、その後の戦いもやってみせよう。その覚悟がお前にあるのか、と問いかける以上に相手に与える圧迫感などあるわけがないのだ。
先生は一言も発していない。今までだって言われたこともない。けれど、弟子の一人がこうやって戦いに挑もうとしているこの時、正眼に静かに構えたその姿が、目が、教えてくれるのだ。大丈夫だ、やってきたことはすべて身になった。心がそれを支える。さあ、お前の心は何を語る?
ふ、と息を吐いて金本先生は竹刀を引いた。同時に在信も竹刀を下げた。
ぴたり、とその場に正座した在信が、こぶしを腿に突き立てて頭を静かに下げたとき、道場の端に並んで、息をのんで師匠と在信の立ち合いを見ていた何人もの弟子たちが、大きく息をついてその場に崩れ落ちた。