㊟90万hit記念。
成均館スキャンダルの登場人物による創作です。
作品舞台及び登場人物を江戸時代にスライドしています。
ご注意ください。
ゆっくりと起き上がる上半身。雑巾は床に所在なく置かれたまま。雑巾を離した白い手は上半身を起こした流れのまま正座した膝の上に置かれた。
「・・・何か・・・あったんでしょうか?」
「いや、何かあったならそれこそすでにこの場にはいない・・・あるかもしれないから、行って動けるようにしておくということだ。」
「・・・常在戦場・・・。」
由仁の口からこぼれでた言葉に愕然とする。いくら武家の女とはいえ、その言葉を知っているとは。
「そこまで大げさな話ではない・・・。」
「けれど、備えを強める必要をお感じなのでしょう?常に気を張っておられるからこそです。」
気を張ってるのは俺じゃねえ、と在信は言いたかった。気を張っているのは、敵味方が混在する最前線にいる俊之介のことだ、その身を狙われている陽高様のことだ、国元で藩主という名の後で立ちはだかっている奴らと静かに対峙している兄や父、表面上の平穏を必死に手綱を引いて保っている城代家老のことだ。俺は、お役目を担いながらも、ここで竹刀を振っていただけだ。
「在信さんはご存じでしょう?『常在戦場』。これは切った張ったのお話だけじゃないということを。」
由仁は黙り込んだ在信に静かに聞いた。
言葉の意味は字の通り、常に戦場にあるという気をもっていよ、ということだ。何事をなすにも、命をかける戦場にある心をもって当たれという、ある藩の家訓だ。他国の大名家の家訓を由仁が知っている事自体が驚きだが、その裏にある本来の意味まで学んでいるとは知らなかった。
その家訓には続きの物語がある。いわゆる本来の意味の戦で、その大名家は敗北した。その後、その敗北により国も面目もなくしかけたのだが、政治力を家中一丸となって発揮、石高を回復し大名家として生き残ったのだ。敗北しても、失敗しても諦めずに、違う場所で、機会で取り返すことができる、という意味を含んでいると言われている。
「・・・ああ、知っている・・・。」
「私は・・・朝木の内情は存じません。けれど、伊藤陽高様、俊之介さん、在信さんを存じ上げています。こんな立派な方達が丹精を込められるお国は素晴らしいお国になると思います。そのためにお働きなのだと理解しています。」
誠にその通り、と在信は頭を垂れるしかなかった。部外者の由仁が言う平坦な言葉の方がよほど在信の頭を納得させた。そうだ。俺は今から国のために働くのだ、と。
「お心はこれからも在戦場なのだと思うのです。皆様が理想を追いかける限り・・・そのために在信さんは陽高様の所に行かれるんですね?」
「ああ、そうだ。」
「心おきなく、と申し上げたいのですが・・・私にできる事はございますか?」
在信は厨の土間に立ち、足を肩幅に開いた。軽く拳を握った両腕はだらんと両脇に垂らしている。余計な力を抜いて。だがすぐに腰の刀が抜けるように身体の芯は真っ直ぐに立ち、全ての重心は丹田に静かに落されている。朝木のこれからを決める争いに勝ち、そしてその後は朝木のこれからのために戦うのだ。今、だけではない。そういうことだ。これからのための戦いに行くのだ。なんという人だ金本由仁という娘は。こんな、まだ自分がその渦中にいる自覚すら受け身の男に、その役目をちゃんと理解させるなんて。
「先生のおられるこの道場から外に出ないでくだされ。常に先生、安藤師範代、順也殿と共にいてくださるよう頼む。」
「それがなんの助けになりますか?」
在信の肩の力がふ、と抜けた。なんの助け?そうだよなあ、そう思うよなあ、だが。
「帰る場所があってこそ武士は戦いに意味を見出す。由仁さんの元に帰る理由を俺に頂けるか?」
「道場は弟子をいつも迎え入れますよ。」
「先生にはそう御願いした。けれど由仁さん。」
帰ったら。
「俺の話を聞く、そう約束してくれ。」
由仁の両手の先が膝を滑り、美しく三つ指がつかれた。