㊟90万hit記念。
成均館スキャンダルの登場人物による創作です。
作品舞台及び登場人物を江戸時代にスライドしています。
ご注意ください。
その日、在信は由仁を連れて四谷を訪れようとしていた。
在信の片手には膨らんだ風呂敷包みが下げられている。そこそこ重いが、それは書籍が入っているからだった。陽高の所に移って、手元に置いておきたい書物が増えた由久が、在信についでのときに、と持ってくることを頼んだのだ。由仁に由久の部屋に入ることを打診したところ、連れて行く連れて行くと請け負ったのになかなかその機会をくれない在信に、今回こそ、とばかりに一緒に行くことを承知させたのだ。
在信は、陽高と江戸藩邸の者達の会合に同席して彼を守り、一緒に泊まるか、四谷まで供をして守りながら帰るか、という日々を送っていた。圧倒的に夜が多い。今日は会合がないので、朝稽古が終わったら荷を持っていくと由久に請け負ったのだから、由仁を連れて行けない、とは言えなかった。夜ではないし、朝の家事が終われば、由仁は昼稽古に小太刀の鍛錬をするために道場にたつ時間もあるのだ。そう主張されれば、在信に断る口実はない。
由仁は胸に軽い包みを抱えている。薄く綿を入れた半纏だと聞いた。これから暑くなるんだぞ、とは言ったものの、確かに寝込んでしまっては四谷の男所帯で様子を見るもあったものではないし、飯炊きのばあさんにも迷惑だ。風邪を先回りして用心するのも一つか、と納得して、それ以上は何も言わずにおいた。
それにしても、と在信は自分の少し後をとことことついてくる由仁の姿を改めて思い出した。
由仁は道場の敷地から出ることは殆どない。食材は、菜になりそうなものは出入りの棒手振がやってくるし、農家の子弟が野菜などはよく持ち込んでくれる。米や味噌などは、親戚の雑穀問屋が纏めて運び込んでくれるし、大体において由仁は家事に忙しいからでる暇は殆どない。あっても小太刀の鍛錬に費やしてしまう。だから、武家の娘の割には質素な小袖の着物をさらにたすきにかけている姿が見慣れた由仁だ。
だから、お待たせしました、と書籍の風呂敷を玄関の式台において待っている在信の前に現れたとき、正直、初めて化粧をした由仁を見てびっくりしたのだ。濃くはない。けれど、うっすらとはたかれた白粉の香りといつもより艶やかに色づいている唇に胸がどん、と鳴った気がした。髪はいつも通り丸髷だが、綺麗な緑色の玉のついた簪がやけに目に入ってくる。着物も、小袖ではあるが絹物で、季節が夏に向かおうとしているからか、柄があっさりとした紺と白の格子だ。帯もいつもの簡単に結んでいる細い帯ではなく、袋帯をきっちりと締めていた。在信は、違うとは分かってもどう違うかは分からないので、いつもよりお太鼓が膨らんでいるのと、厚みも幅もあることで認識したようなものだ。だが、細くしなやかな由仁の肢体がいつもより隠れてしまっている。
隠れてしまっているのだが、と在信は思わず口元を押さえた。由仁が後を歩いていてくれてつくづく良かったと思う。少々表情が崩れた自覚があるので。
身体の線は隠れているのだが、在信は普段の由仁を知っているのだ。薄手の木綿の小袖を着て走り回っている由仁を。たすきをかけてむき出しになる肘の少し上までの腕の細さも、帯が細いのと、おそらく性分できっちりと締めるせいで細さが強調される腰と、反して豊かさが分かる胸元。細いけれど丸みのある腰からしたの線。
正直、普段はあまり意識していなかった。見ているつもりもなかった。なかったのに、一瞬でその対比が頭を駆け巡ったのだ。いかに自分が若い男なのだということを自覚させられた。そして、男として由仁を見てしまっている自分の心の奥底も。
そんな事を考えていても、在信は意識を周囲には飛ばしていた。行き先が陽高の所だからだ。だから気づいた。
街道が通る内藤新宿。最近は旅籠や店が建ち並び、内藤家の広大な屋敷しかなかったこの辺りも繁華になってきた。人通りも激しい。その雑踏の中に、目立つ丈の男が一人。黒の着流しに黒繻子の帯、湿り気を帯びたような総髪への既視感は警戒に一瞬で変わった。
しかし、相手も連れがいた。
「・・・銀様?」
見るからにあだな女に何か囁いて笑った男は、ちらりと在信を見て目元を笑わせると、女と共に雑踏に消えていった。