まだ暗い早朝、ソンジュンの足は村落の方へと向かっていた。後ろから下男がオロオロと着いてきている。この下男は、ソンジュンの母に言いつけられて、ユニが別邸に来た折には、ユニの家の近くまで送っていっていたのだ。ソンジュンの母からすれば余所の家のお嬢様だ。無事に家に戻すのが礼儀だったのだろう。
下男は夜、ユニの家に案内するように言いつけられて少し困った。ある程度集落の近くまで来ると、ユニは決まって下男ににっこりと笑って、『ここまででよろしいですよ、ありがとう』と下男の見送りを断っていたのだ。さすがにユニの姿がある程度見えなくなるまでは見送っていたので方向は分かっているが、屋敷自体ははっきりと知らない、そう下男はソンジュンに言った。
「構わない。近くまで行って探すことにする。」
ソンジュンが伝えたのは恐ろしく早い時間だった。都の屋敷の執事のやり口は分かっていた。母の体調を気遣って昼前のゆっくりとした出立にしていたが、おそらく迎えの輿はそこそこ早い時間に到着するだろう。片付けの下男下女も連れてくるだろう。そんな中ソンジュンが抜け出せるわけもないのだ。行くなら、早朝しかなかった。
薄暗い中、スタスタと村落に入ったソンジュン。下男の指差すとおりにまばらな家を通り過ぎていくと、外れの方に見かけは他の家とは違っているものがあった。狭いながらも庭は竹囲いがしてあるし、ソンジュンの知る両班の屋敷とは比べものにならないぐらい小さいとは言え、いわゆる母屋と内棟とに別れた家があった。まだ日も出ていない時刻。ソンジュンはここがキム家だろうと当たりはついたが、勢いのまま出てきただけなのでどうしようかと立ちすくんでしまった。懐には紙で包んだ『中庸』。せめて手渡したいと思ってやってきたものの、ユニを呼び出せば家族の耳にも入るだろうことに、手も足も出ない。
下男が、坊っちゃん、自分が残ってお嬢様にご挨拶いたします、と見かねて言い出そうとしたとき、ソンジュンの肩が揺れた。見ると、内棟らしき建物の戸が静かに開いたのだ。薄暗い中目をこらして見ていると、出てきたのは明らかに小さな影。
小桶を持って出てきた影は、庭を横切り隅の方へ移動していく。そこには井戸があった。石で縁どられ、板で蓋をしてある井戸に近づくと、そっと蓋を開けている。蓋の上に置いてあったくみ出し用の縄付きの桶を投げ入れる姿に、朝日の光が一筋差し込んだ。
ユニだった。起き抜けなのだろう。おそらく寝衣用の薄いチマが足に纏わり付いていた。膨らみも何もないそのチマが見せるユニの身体の線は細かった。少し寝乱れていた髪を、くみ終わった水で顔を洗うついでに濡れた手で撫でつけ、持っていたらしい手拭いで拭い、再び桶を井戸に投げ入れるのをソンジュンは呆然とみていた。くみ上げた水を小桶に移し、ユニは立ち上がった。小桶は内棟に持ち込むのだろう。母親の洗顔用だろうか。
ソンジュンはは、として駆けだした。今しかなかった。道を突っ切り、竹囲いに身体を押しつけるようにしてユニを呼んだ。小さな声で。けれど 必死の声で。ユニ殿、ユニ殿。その声は歩き出して数歩のユニの動きを止めてしまった。
「・・・ユニ殿・・・俺は今日・・・都に戻らなければならない・・・」
挨拶も何もなしに語り出したソンジュンの言葉に、ユニはソンジュンの登場に驚いていた表情から色をなくした。朝日の美しい橙色が当たっているのに、その頬は真っ白になった。持っていた小桶がぼと、と地面に落ち、水の染みを作りながら転がっていくことにも気づかないで。
まるで意志を失った人形のように、ユニは足を機械的に動かして竹囲いに近づいた。今ソンジュンがここにいるのも嘘のようだが、それよりもソンジュンの口からでた言葉の方が嘘だと思いたい。今日、午後から別邸に行こうと思っていたのに。お母様はお許しをくださっていたのに。これからもまだまだ会えると思っていたのに。
近づくユニの頬に一筋の涙がこぼれているのが朝日に煌めく。ソンジュンはその光景を愛しく、そして恨めしく思った。