少女は小さな声で、ハイ、と答えた後、靴を履きだしたようだった。というのも、ソンジュンはくるりと背中を向けてしまったからだ。今まで散々見た挙句に触れてもいたのに今更だが、それでもじろじろ見るという行為は避けねばならなかった。無礼なまねはこれ以上してはならなかった。さっきの行為は非常時故仕方がなかったのだ、と自分自身で言い訳をした。そうやって無理矢理自分のしたことをうやむやにすることにした。
衣擦れの音がする。おそらく足袋も履いているのだろう。靴を脱ぎ捨てたとき、一緒に脱げて靴の中に残っているのが見えていたし、さっき拭いた足を靴の上に置いたときも足袋の端が履き口からはみ出していた。そう。ちゃんと身体は覆っておいてほしい。さっきは自分が見るハメになった素足。他の者に見せる事は許されない。白くて小さい華奢な足。桜色の小さな爪。あんな美しいものは隠しておかなければならないのだ、と思ってから、ソンジュンはぎく、とした。どれだけ彼女の足を見つめたのか、俺は、確かちゃんと目をそらしておいたはずなのに。どれだけ短い時間の間に凝視したのか、記憶にまで残したのか、自分の中にある兆し始めたいわゆる邪心というものに気づいた初めての日だった、と後年懐かしく思い出したのだが、その日はそれどころではなかった。隠さなければならなかったから、その邪心を、表情を。さっき何かありましたか、ちょっとお話をするだけです、という普段通りの振る舞いを続けなければならない。それは少年の意地のようなものだっただろう。
ソンジュンは手持ち無沙汰にに少女に背を向けていたが、ふと目の端に入ったものを拾い上げに小川のほとりに近寄った。さっきまで少女が摘んだ芹を入れていた籠が置きっぱなしだったのだ。幸いにも、ソンジュンが少女を水から引き上げたときにひっくり返さずにはすんでいて、そこに所在なげにぽつんと置き去りになっていた。手に持つと、芹の独特の少しきつい香りが漂い、美しい黄緑色が籠のくすんだ茶色と真逆の明るさを目に訴えてきた。籠は使い込んで色が変わった竹籠。持ち手は布で後から取り付けたようで、おそらく手拭いを縛り付けているだけのようだった。幼い子が肘にかけて歩けるように工夫したのだろうか。どこからここまで来たのかは知らないが、少年が歩いてきた小川沿いにめぼしい人家はなかったように記憶している。来るときは空かもしれないが、帰宅時にはこうやって水分を含んだ野草が入ると思えば、取っ手一つも取り付けた母親の愛情を感じる。別に邪険にされているわけではないのだ。ただ、弟の方が身体が弱く構われているだけで、少女だから学問から遠ざけられているだけで。家族には恵まれている。足りないのは彼女の中にある学問を求める欲求だ。そしてそれは満たされることは決してない。
あの、という小さな声に、ソンジュンは反射的に振り向いた。そこにはきちんと靴を履き、身だしなみを整えた少女が立っていた。改めてよく見ると、白いチョゴリの胸下にあるチョゴリを止める紐はテンギの色と合わせているのか紫色の平紐だった。綺麗に蝶結びにされ、テンギの他に飾りのない少女の装いを色づけている。裾短かなチマも濃い緑色で、おそらく母親か誰かのチマの仕立て直しなのだろうが、それ故布が多く使われていて膨らみがしっかりと取れている。本来は先しか見えないはずの黒い靴が全部見えているのは年齢的にそういう着方をさせるからだろう。ということは、まだこの少女は10才にもならないのか。
呼びかけようとしてソンジュンははたと困った。名を知らない。相手も自分の名を知らない。順序として自分の名を紹介すべきだろうし、年齢的、立場的にも話しかけるのは自分であるべきだろう、とソンジュンはぐるぐる考えた。べきはわかっている。けれど、ソンジュンの口は、暗唱するときはすらすらと動くのに、このような単純なお喋りの時には恐ろしく動きが悪くなるのだ。かなりの心構えが必要だ。さあ、と自分の口やら胸の内やらを叱咤激励しているソンジュンだったが、再び、あの、という小さな声が聞こえた後、ソンジュンは自分が出遅れたことを悟った。