さて。


 

今年三陸鉄道が40周年を迎えました。本日はその三陸鉄道の話など。


 今は昔。1984年4月1日。 それまでの国鉄宮古線、国鉄久慈線が廃止され、また建設中だった普代~田老間の開業を国鉄として断念する代わりに、全国初の第三セクターによる鉄道として三陸鉄道は開業いたしました。白いスマートなボディに赤とブルーのトリコロール。通称「36型」。どこかしら「ガンダム」を連想するカラーリングですが(笑)

 実はボクも三陸鉄道通学者第一期生(笑) 開業から約一週間後の4/7に入学式、さっそく定期券を買い、毎日この列車で通学することとなりました。三陸鉄道が開通したことで、沿岸の高校で勉強するのに、いちいち下宿したり親の送り迎え、あるいは原チャでの通学の必要がなくなり、利便性は大きいものでした。

 当時は基本二両編成でしたが、ときにはあまりの混雑から三両になることもありました。学生だけでなく、サラリーマンや病院に通院する方(当時、新築移転前の県立宮古病院は宮古駅のほぼ真ん前にありました)、もちろん観光客…それはもう大賑わいでした。

 車両はこの辺りでは珍しくもなんともないディーゼル気動車。逆に当時としては珍しかったものとして、車内にドリンクの自動販売機が設置されていました(後述しますが、この「ディーゼル気動車」だったことが後で重要な意味を持つことになるのですが…)。車内では軽やかなマンボやサンバなどのBGMを流し、ときには車内のモニターで三陸の名所案内のVTRを写したりしてました。他の国鉄の路線とは大違いのサービスぶりでした。

 


 雨の日も風の日も。大雪の冬も猛暑の夏も。朝は他校の友達とたわいのない雑談、ときには一夜漬けならぬ1時間漬けのテスト勉強や宿題のノート写し(笑)。夕方は部活で疲れてひたすら惰眠を貪り…降りる駅を通り過ぎたり(苦笑)。高校時代は三鉄と過ごした三年間でした。

 地域への密着サービス、ということからか、いい意味でアバウトなところもあり助かりました。ボクが遅刻したことが判ると出発を待っていただいたり、定期を買い忘れると「明日はちゃんと定期券買ってこいよ!」と文字通り顔パスしていただいたり…。記憶がアバウトですが、当時の車掌さんが、橋上和司さんや金野淳一さんだったと思います。待てよ、運転手さんだったかな…( ̄_ ̄ i)??



 さて。

 
 「何かいつもの三鉄と違うな」と違和感を感じ始めたのが高校三年生のとき、1986年でした。ジュースの販売機が撤去され、軽やかなBGMもなくなる。ウニ丼を売っていたオバちゃんの姿も見えません。相変わらず通学生でごった返しているというのに、ギッチギチの一両編成。記憶ははっきりしませんが、車掌さんがいなくなり、ワンマンバスのような料金機が置かれるようになったような。要は三鉄ブームもすっかり去り、イケイケだった三鉄の経営状況が芳しくなくなってきたようです。そして、卒業後、就職しクルマを持つようになってからはすっかり三鉄には乗る機会がなくなってしまいました…。


 そして、あの日。


 2011年3月11日、午後2時46分。

 

 長くなったので、後半に続く。…と思ったけどやめた。その後の三鉄の奮戦ぶりはもうボクが言うまでもなく、すばらしいモノ。泣けるエピソードとかいろいろあるけど、心にとどめときます。

 

 

ところで。

 

 

様々なことがあった三鉄での通学ですが、なぜか「ロマンスの神様」とはついに巡り合わなかったなぁ…(・ω・`)

 

 

 

でわ、股。