はぃどーもこんばんわぁぁ。楽団の練習から帰還いたしました。しばらく禁酒(もしくは量の制限。笑)をしていたのですが、気温の上昇とともにタガが緩み始め、ビールを飲む量が増えてきました。結果として4月から2㌔ほど体重が増えてしまいました。(´д`lll)。しかし気のせいか、楽器がきっちり鳴らせてきた感じがします。適度に太っていたほうがいい音が出るんでしょうかねぇ????o(_ _*)o
さて。
先日、仕事の外回り中にチロッと廃線路跡を散策してきました。「ラサ工業専用線」です。
ラサ工業。日本で二番目に高い「ラサの大煙突」でも有名な工場です。戦時中には軍需産業として、食糧増産のための肥料工場として宮古市だけでなく日本を支えていたともいえる工場でした。S61年頃に肥料部門から撤退し、現在は半導体の再生品の工場として盛業中とのことです。なお当地では、現在「コープケミカル」社が肥料部門を受け持っているようです。
以前は「田老鉱山」なども所有し、そこで取れる銅鉱石などを索道(ロープウェイ)で宮古港(正確には港近くのホッパー)まで運搬し、さらに鉄道にて、国鉄宮古港駅(現在は廃止)から宮古駅を経てラサの工場まで運んでおりました。工場の構内では、国内ではほぼ絶滅していたSL(蒸気機関車)を貨物の入れ替えに使用しており、その時のSL、C-10-8型は現在大井川鉄道で現役として稼動しております。
で。
まずは、ラサに隣接する缶詰工場を横切り、藤原小学校脇に出る交差点より散策をスタート♪
交差点より南側を見る。フェンスとフェンスの間、雑草に覆われた空き地が帯のように山側に延びています。この先には、ラサの工場敷地内へと続くトンネルが口を開けています。たぶんこれが線路跡。現役当時の左の写真の位置と思われます。
現在でもポッカリ口を開けているトンネル。この先はラサ工場の敷地内になります。もちろんトンネルもその先も現在でも一般人は立入禁止です(笑)。
交差点付近。現在は砂利敷きの道路になっていますが、おそらくこの道に沿ってかつては線路が延びていたと思われます。左の写真、この交差点の踏切の当時の様子がチラッと写っています。
ここの交差点に唯一残っている踏切関連のモノ。標識だとは思いますが、下の四角い部分に書かれた「止まれ見よ」の文字がかろうじて判読できますが、もはや錆び錆びで何が何だか・・・(;^_^A
方向こそ違いますが、ほぼ同じ場所かと思います。左の現役当時の写真、右隅にチロッと写っているのが宮古市立藤原小学校です。
左の写真は宮古駅方向を見たものです(左側に写っているの藤原小学校の体育館)。現在のJR山田線は線路跡の一段低いところに敷かれています。おそらく貨物の受け渡しの際、宮古駅から来た貨物列車は藤原小学校あたりで一度山田線からこちらの引込み線へとポイント移動していたのではないかと思われます。
かすかに残るレール跡??? そして防護柵の跡。たぶん枕木の再利用でしょうね。
たぶん同じ場所でしょうね。かつては左の写真のように、貨物の受け渡しが行われていました。現在ではレールは剥がされご覧の有様・・・。
背景の山や、向こうに見える重茂(おもえ)半島、右の電柱の形状から、ここもほぼ同じ場所ですね。SLの手前にポイントの切り替え機が見えます。黙々と仕事をしている作業員の後には、無邪気に遊ぶ「わらすがどう」(子供たち)の姿が見えます。SLの近くで堂々とはしゃいでいます。ほのぼのとしたいい時代ですね(´∀`)。
これもほぼ同じ位置ですね。たぶんSLは貨物の受け渡しを終え、このあとラサ工場へと向かうのでしょう。確かこの辺、右の小高い丘の上に「藤原比古神社」があったと思います。もちろん今でも健在です。
この辺で線路跡はおしまい。たぶんかつてはこの踏切の上に引込み線の線路があり、その延長上、現在の山田線「磯鶏トンネル」付近で平行になっていたものと思われます。古いコンクリートの橋脚跡?がかろうじて当時をしのばせるものとなっています。
youtubeで見つけた貴重な動画です。無声映像ですが、当時のラサSLの作業中の映像です。
http://www.youtube.com/watch?v=GxI3oteydkc
・・・記憶が不正確で恐縮ですが、確か'85年あたりにこの受け渡し作業は廃止されたと思います。すでに20年以上経っているのですね。かつては釜石市に並ぶ、岩手県沿岸の重工業都市でもあった宮古市。重厚で長大な貨物列車とSLが、小学校のすぐ脇や民家の軒下を掠めるようにして走っていた時代もあったんですね・・・。
んでば。股にて。もやしみおーる(´∀`)ノ