今回は「ノーラン監督作品を妄想力で読み解く!」シリーズ、各論編の第6回として、
2014年公開の『インターステラー』について、最後の妄想力を振り絞ろうと思います。
前々回くらいのブログで取り上げた、
『インターステラー』という時空間でノーラン監督が描こうとした(であろう)3つのもの
①映像化された理論物理学的現象
②ノーラン的「愛」
③時間を超えた「stellar」
のうち、ラストの③について。
要は、『インターステラー』(Interstellar)の「stellar」って何だろう?ということです。
もちろん、Interstellarとは「恒星間」あるいは「恒星系間」を意味する英単語で、映画の内容としても太陽系から別の恒星系へと旅立っていく、恒星系間の話になっています。
ただ、「Inter」と「Stellar」に分解可能なタイトルの、「Stellar」に込められた意味とはそれだけなのか?隠されたテーマを読み取ることができるのではないか?
それを、妄想力全開で読み取ってみようと。
さて、「Stellar」を英和辞典で引くと、二つの意味が書かれています。
・恒星の
・傑出した
前者はまんま、「Inter」とくっついて恒星間という意味になります。
では後者、名詞的に受け取って「傑出した(もの)」、ある種の「偉業」として解釈したとき、この映画から読み取れるテーマは無いのだろうか?
実はこれ、個人的にはある疑問と結び付けて読むべきだと思っています。
冒頭、なぜトウモロコシ畑から始まるのか?という疑問。
あれは恐らく、アメリカ植民時代の象徴としての意図を含んでいると思うんですよね。
あのトウモロコシ畑は、一世紀以上前の「新世界」たる、アメリカ大陸開拓の歴史を背負っている。
そして、冒頭流れるインタビュー調の映像。「砂埃が凄くて食器を裏返しにしていた」とか何とか…。
あれ、表面的にはクーパー達の衰退した地球(アメリカ)を語ったドキュメンタリーとして描かれる訳ですが、個人的にはもっと妄想していいのではないかと思うのです。
つまり、あれは開拓時代の引用。
まだ農地化されていない未開の荒野で、開拓者たちはほとんど同じようなことを言っていたのではないか?
更に言うなら、アメリアが眠る「新世界」、未開の惑星に降り立った人類は、開拓の過程でほとんど同じようなことを口にするのではないか?
つまりは開拓という「stellar」の物語として、解釈できる訳です。
(「stellar」は形容詞ですが、名詞的に受け取っています)
アメリカという「新世界」を開拓から創り上げた過去の偉業。そして、未開の惑星という「新世界」を、まさに開拓していく未来の偉業。
その中間地点たる、クーパー達の今。
過去・現在・未来を、あのドキュメンタリー調の証言が紐帯として結び付けている。
また、SFあるあるな方法論として、クーパー達の衰退した世界というのは、現代のメタファーな訳です。
かつて栄華を誇った世界(特に一次産業?)は、今や衰退の一途をたどり滅亡寸前にある。しかし、人類はかつて新世界の開拓と創造(=アメリカ大陸)という偉業を成し遂げている。自分たちはそういう血を引いている。だから、未来においても開拓の偉業を成し遂げられるはずだ。今はまさに、その分岐点なんだ。
そういうメッセージ。
思えば、人類の歴史というのは開拓の歴史な訳です。
狩猟採集民が定住を始めて、それが村になり、国になり、更には国家になり…
拡大の中で、常に新天地を求めて、開拓を続ける歴史であった。
その動機は決してポジティブなものばかりではなく、国を追われたり、地域的因習にうんざりしたり、貧困から抜け出したかったり、物欲に目がくらんだり…、とにかくあらゆる動機で開拓を続けてきた。
そして、それはこれからも変わらない(たぶん)。
本作は新天地としての惑星を探す物語ですし、五次元空間を開拓してしまった未来の人類までもが絡んでくる。
過去も未来も、人類史は開拓という偉業なしには語れない。
では、そのコンテクストにおける、今の位置づけとは…?
その答えが、「Stellar」の狭間にある、クーパーなんです。きっと。
前回書いた、人類という血脈への愛、「縦の愛」を根本に置きつつ、人の根底に流れる開拓者魂というか、チャレンジ精神のようなもの。そして、その精神性による、開拓という「Stellar」。
『インターステラー』は、過去と未来に新天地開拓という「傑出した」ものを置き、
その中間地点として今を定義することで、現在という逆境の克服・打破を、ある種必然的なものとして語りたかったのではないか。
ただし、この必然というのは留保付きです。
必然という種子を芽吹かせるのか、枯らしてしまうのか。それは「stellar」の狭間にいる私たち次第だと。