「愛」のベクトル クリストファー・ノーラン監督『インターステラー』を妄想力で読み解く② | 天野という窓

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今回は「ノーラン監督作品を妄想力で読み解く!」シリーズ、各論編の第5回として、

2014年公開の『インターステラー』について続編を書きたいと思います。

 

前回ブログで取り上げた、

『インターステラー』という時空間でノーラン監督が描こうとした(であろう)3つのもの

 

①映像化された理論物理学的現象

②ノーラン的「愛」

③時間を超えた「stellar」

 

のうち、②について。

 

この作品の主題の一つが「愛」であることは、異論はないと思います。

では、映画内で「観察可能な『力』」「理解していないだけで、特別な意味があるもの」と語られる「愛」とは、一体どういった種類のものを指しているのか?

 

アメリアが主張する愛とは、男女愛です。

愛し合う男女が、空間を隔てて惹かれ合うという作用。

ただこれは、作品を通して主張したい「愛」とは違う気がします。

 

アメリアの愛は結局成就しない(マン博士の星に降りたために、エドマンズはアメリアの到達時点で死んでいる)ですし、クーパーの奥さんも、最初から死んでいるという設定。

恋人、あるいは夫婦といった、いわば「横の愛」を意図的に排除しているように思えます。

 

家族愛でもないでしょう。

映画中の家族関係といえば、母親が欠けているか喧嘩しているかのどちらかですから。

 

では何かというと、やはり父ジョセフと娘のマーフ、クーパー親子に代表される親子愛、

つまり「縦の愛」だと思うんです。

 

考えてみると、『インターステラー』には3つの親子愛が描かれています。

地球で死に瀕した娘を救おうとするクーパーの愛。(計算の結果)人類は助からないと悟りながら、娘を宇宙に送って生かそうとするブラント教授の愛。

そして、絶滅に瀕した人類を救うために、「ワームホール」「五次元空間」を託して未来へ導こうとする、未来人類の広義の親子愛。

(生まれた序列から言えば未来人類が子供ですが、知的レベルの差という意味で、未来人類が親(父)で、クーパー達が子という関係)

 

親子愛。

特に、子供を導こうとする父性愛のようなもの。

 

そして、親子愛というのは連続性がある訳です。

親が子を育て、子が更に子を育てる。

一つの親子愛は、やがて「世代」「系譜」という線として連なっていく。

そのようにして、数百年数千年という時間軸で現出される、人類という「血脈」。

 

過去、現在、そして未来へと連なる、ある種の「流れ」としての人類への愛。

更に言うと、人類がその根底で連綿と受け継ぐ、とある精神性への愛(敬意)。

 

『インターステラー』では宇宙というスケール、

そして五次元の未来人類というある種トンデモな設定を持ち込むことで、そういうものを根底で語っているように感じるんですよね。

(その精神性というのが具体的に何なのかは、「その③」で解説します)

 

…さて、そんな話をしておきながらですが。

上のような前提を置いたときに、映画のラスト、クーパーが単独でアメリアのもとに飛んでいくという、あの結末が「男女愛」「(ある種の)親子愛」どちらを動機にしているのかは、個人的にかなり気になります。

 

正直、どちらとも取れると思います。

クーパーとアメリアは見た感じ、世代が一つ違いそうですし、アメリアは控えめに言っても「オテンバ」な感じでしたので、半人前な後輩の成長(自己犠牲)を、先輩的愛をもって迎えに行く、ある種の親子愛的展開という見方もできると思いますし、

二人は惹かれ合っていた、とシンプルに男女愛として見ることもできます。

 

男女愛として見たほうが、ドラマチックですけどね。

はるか宇宙の彼方。無人の惑星で一人迎えを待つ姫と、白馬の王子様。

そういう古典っぽいことを宇宙スケールでやりましたと。

 

それはそれでいい気がします。

なぜなら、「縦の愛」とは結局のところ、「横の愛」無しにはあり得ないのですから。

(いい感じにまとめてみた)