エイリアンはなぜ淘汰されたのか② -映画『エイリアン2』を妄想力で読み解く- | 天野という窓

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こんばんは。

前回に引き続き、ジェームズ・キャメロン監督「エイリアン2」について、妄想力を働かせてみたいと思います。

 

今回は、前回挙げた比較すべき点

 

①乗組員は何者なのか

②コールドスリープからの目覚め方

③アンドロイドをどんな存在として描いているか

④どのようにエイリアンを倒しているか

 

のうち、③についてです。

これが一番意図をもってやっている気がします。

というより、ほぼ確信犯だと思っています。

 

リドリー・スコット監督「エイリアン」において、アンドロイドは乗組員(人間)を出し抜き、殺害すら辞さない存在でした。

最後は乗組員にメタメタに破壊されて、恍惚の表情で「パーフェクト・オーガニズム」と口にする。

 

人間とアンドロイドは「完全さの希求」という宇宙的土俵において、淘汰し淘汰される敵対関係として描かれています。

(この辺は「エイリアン」ではほのかに香る程度で、「エイリアン・コヴェナント」で確信犯になります)

 

一方の「エイリアン2」はどうか?

アンドロイドのビショップは、終始リプリー達人間をサポートし、助ける存在であり続けます。

 

実は、個人的にはビショップには裏切ってほしかったんです。

エイリアン1と2で、あまりにも明からさまにアンドロイドの描き方が違うので、どこかで裏切って1側について、それで破壊されて「チャンチャン♪結局アンドロイドはこういう奴さ」となって欲しかった。

 

ところがそうならないんですね。

幾つか、裏切りを予感させる場面が出てきますが、そういった絶妙な振れ幅はありつつ常に人間側につき続ける。

(アンドロイドへの根源的というか潜在的恐怖心を利用したうまい演出だなと、思ったり思わなかったりします)

 

それどころか、もはや「疑似家族」を思わせるカットまで出てきます。

それはエイリアン・クイーンから逃げて、シャトルから母船に降りる結構後半のシーンですが、リプリーとビショップ、そして救助した少女ニュートが、まるで親子と見まごうような並びで映るシーンがあるんですね。

 

これは正直「おっ!」となりました。そこまで踏み込むかと。

(ただその後、ビショップはエイリアン・クイーンに破壊されて、それは個人的には「そうなるのは早い」という監督の暗黙の意思表示なのかなと思ったり思わなかったりするのですが)

 

そしてもう一つ。

これはアンドロイドではありませんが、母船に積まれたアームスーツ。

人型をした油圧装置で、これを装着して大型の武器だったり機材だったりを運ぶんですね。

つまりは、身体の延長(ものすごく分かりやすい)。

 

そして、その身体の延長たるアームスーツ(機械)を着て、母船に侵入したエイリアン・クイーンとサシで戦う。

 

これはもうビックリ仰天です。

「なんだこの茶番は!」という感じ。残忍で俊敏なエイリアン・クイーンと鈍重なアームスーツ(を着たリプリー)。どう考えたって勝負になりませんよね。しかも誰得なシーンなんだという。

 

そんな箸にも棒にもかからないようなシーンをあえて入れる。しかも結構な尺をかけて。

やはりここには意図を感じざるを得ないんですよね。

 

つまりアンドロイド、そして機械というのは人間の器官というか、

外部化・拡張された人間の身体そのものだ、ということなんだと思うんですよね。

 

そして、リドリー・スコット監督「エイリアン」へのカウンターパンチとしては

その外部化・拡張された身体としての「機械」を捨象して人間という存在を語ることはできず、人間をそのように定義するのなら、それは「パーフェクト・オーガニズム」たるエイリアンを凌ぐ存在なのだと。

 

言ってしまえば、アメリカ的人間主義ですね。

ハリウッド映画ではもはや鉄板ともいえるイデオロギーな気がしますが、こうして「エイリアン」「エイリアン2」を比較したうえで浮き彫りにすると、とても示唆的で興味深いです。

 

…ただ、これは「エイリアン2」の功罪の罪の方、とでも言うべきか、

この作品によって、「エイリアン」において孤高の地位を得ていたエイリアンという存在は、限りなく卑小化の一途をたどることになります。

 

それについては、また次回。