こんばんは、天野隆征です。
今回から、おそらく何回かに分かれると思いますが、
もののけ姫の物語としての独自性と言いますか、少なくともそれまでのジブリ映画(ナウシカやラピュタなど、宮崎駿監督自身が原作を手掛けているもの)とは違う点と、それによって生じているいくつかの点について書き留めたいと思います。
まず、独自性とは簡単に言ってしまうと「勧善懲悪的ストーリー展開」をやめたということ。
もう少し具体的には、「火(文明)は悪い。風と木(自然)は良い。火を捨てて風と木に立ち返ろう」という、明確な価値基準(善悪)を展開に落としむことをやめているんですね。
例えば、ナウシカには明確にそれがありました。
火(トルメキア)は悪、風と木(風の谷)は善、という二項対立があって、
風の谷は一時トルメキアに蹂躙されますが、結局は王蟲の攻撃でトルメキア兵は多くが死に(なぜか風の谷の住人は生き残り)、撤退して、エンディングでは風の谷が蘇っていく。
古今東西、幾度となく使用されてきた「勧善懲悪」的ストーリーに乗っています。
要は分かりやすい。
もののけ姫はそこが明確に違います。
ナウシカ同様に、火と木(文明と自然)の関係をテーマに置きながら、勧善懲悪的には捉えていない。
火の側(エボシとたたら場)にも(一義的には)真っ当な理屈があり、生活があり、生がある。
「火が悪で、木が善」などと単純に割り切れる問題ではない。そういったスタンスの違いが非常によく出ています。
こういう差は登場人物を比較すると、更によくわかります。
アシタカをナウシカ、エボシをクシャナと対応させてみると、その行動や描き方がまるで違うことに気がつきます。
特に、エボシは「割り切れなさ」という点で非常に奥の深い人物です。
もはやエボシを主人公にしても良かったのでは、というくらい、多くの矛盾や葛藤を内包しながらも凛とあり続ける女性。
相当魅力的な登場人物です。
(一方でアシタカはというと、、アシタカは何というか、物語上の役割としては相当冷めているというか、なかなかに物議をかもす人物であったりします。ちなみに、サンはキャラクターとしての魅力度はそうでもないのですが、「山犬に育てられた娘」というヒジョーに分かりやすい設定ゆえに感情移入しやすいという)
…話がそれました。
もののけ姫の物語としての特徴であり凄みというのは、
大上段の構成からするとやはりこの、勧善懲悪を排して「現実問題の割り切れなさ」をそのまま、縮図として凝縮して作品に落とし込んだという点にあると思います。
しかし、もののけ姫は作品である以上、終わらせなければならない。
起承転結など、作品として「終わらせる」構図に本来乗らない世界観を、とはいえ決着させないといけないというジレンマを抱えているんですよね。
そのことが、特にラストの展開には明確に出ていて、
それをどう決着させたのか(させようとした、ように見えるのか)についても、かなり学べる点が多いです。
(これ、無くて良かったよな、、という点についても)
ということで、次回以降その点を深堀りしていきたいと思います。