こんばんは、天野隆征です。
いやあ、何年かぶりに風邪で寝込んでしまいました。。
それにしても、改めて、風邪で寝込むというのは「我」からすると非常に異様な体験だなと思いました。
普段、私というものの意思決定主体として世界を捉え、ものを考え、身体を統御する存在を「我」とするなら、風邪で寝込むときは「我」ではない、もっと生物的生存本能に即した、言わば緊急回路のようなもの(要は免疫)に身体の統御権を奪われている訳です。
「我」は抑制され、浸食され、次第に形を失っていく。
私の手綱は「我」にはなく、何か別の、もう一つの私と呼ぶしかない、原初的な何かに支配される。
「我」からすると、あれは非常に不可思議であり、屈辱的な瞬間です。
私とは何なのか? 「我」とは一体何なのか?
普段当たり前にその存在を自覚しているからこそ、ひとたびその前提が覆った時の不信はひとしおです。
余談ですが、脳科学的には「我」なんてものは存在しません。
なぜなら、「我」を前述の通り、私(身体etc.)を統御する意思決定主体と定義するなら、私の意思決定というのは「我」が決定を下す前になされているからです。
「我」とは、もう一つの「何か」が下す命令に、後付けの根拠を与えているに過ぎない。
「我」は虚構に過ぎない。
ただ、だからと言って虚無に落ち込む必要はないと私は思っています。
脳科学的に「我」の存在を語るのと、人文的にそれを語るのは別物だと考えていますので。
(そう考えていなかったら、小説なんて書いたりしません)
神を科学的に論ずるのか、宗教的に論ずるのかで答えがまるっきり違うのと同じです。
そして、そこに真偽というか、白黒つけようとするのはナンセンスというか、本質的に無意味な訳です。
どちらかが絶対的に正しいわけではなく、どちらも部分的に正しい。
画一的に「正解」が出せるほど、世界は単純明快にはできていません。
…なんだか話が飛びまくっていますが、、
病み上がりにつきご勘弁を。