午前5時にアラームが鳴った瞬間、僕は走り出した。そして、その手でアラームを止めた。およそ2秒の出来事であった。頭は痛かった。飲み会帰りの上に家に帰ったのが12時である。当然といえば当然かもしれないのだが。
今日はワークショップである。因みに去年これを運営したのが2月20日だっただろうか。オマケ役のような扱いをされた上に、プライドが傷つけられ、人間関係までごちゃごちゃにされ、遂には僕が泣かされたという苦い思い出しかなかった。
そんなワークショップの運営になぜまた携わってしまったのだろうか。先輩の誘いを受けたからである。僕は受けた気持ちや言葉は、それと同じくらい返したかった。先輩の最後の頼みだということで引き受けたのであった。
過程としては中々大変であったといえる。そもそもワークショップを引き受けた時点で、またしても僕の人間関係に若干のダメージがあった。ただし今回は給与3000円を頂き、それを先日の飲み会で使ってしまっているので半ば文句も言いづらい立場だ。僕が作ったのは動画と、パワーポイント資料であった。オリジナルのレイアウトで、少しでも良いものを作りたいと願った。
そして、当日である。昨日のインターンと飲み会のダメージはほとんどなかった。まさに寝たら治るとでも言うのだろうか。先輩が、ある先生が君に話がある、という。訝しげな僕だった。午前8時30分前、大学に到着した。早すぎたので校庭でバナナを食べながら、知り合いと写真とマイナ○の広告とをコラージュさせて、知り合いのいるライングループに投下した。
午前準備が始まった。小手先のような動き方をしていた。不慣れというかなんというか、よく分からない。知り合いも居なければ、やり方も全く分からない。わからないことが、今回は面白くない。何故だったのだろうか。
自分のセッションの時間になった。自分の……と果たしていえるのだろうか。僕がしたことは一部の資料を作ったということだけのだ。司会も、肝心かなめのワークもすべて先輩が作ったものである。というか、そこにはあえて協力しないようにしていた。完全なる分業なのだ。だからこそ、僕がしていたのは「パソコンのエンターキーをタイミングよく押す」というただそれだけなのだ。
果たしてこれに僕は必要だっただろうか。机を運ぶ、エンターキーを押す、それは労働力として確かに必要だっただろう。机を運ぶことも大事であると思う。しかし、それの為に普段殆ど支援センターに関わってもない学生が、こんなところに居るのは場違いではないだろうか。曲がりなりにもこの場所に居る人たちは、何らかの志や芯や、未来への展望があってワークショップ運営に参加しているのだ。
逆に考えてみよう。去年度、僕が代表を務めていた団体の中心人物の友達が、僕の打ち込んでいる企画グループに入り、中途半端な動き方をして去っていったとすると、ああ、あかん。
しかし、最低限居るからには労働力としての働きはせねばなるまい。僕は遠く離れたセンターから会場へと戻ることにした。
会場の片付けを終える。教授が「あの子いいねぇ」などと話している。去年も全く同じ光景を見た。なんだか気管に苦いものを感じた。苦いと苦しいが似ている理由が分かった気がした。
終わったかなと思ったところで、少し離れた建物のところへ行って眠っていた。先輩と合流した。彼女にとって最後のワークショップ運営である。相棒 だとまで言ってくれているのに、僕がこの体たらく、良い思い出にはならないだろう。申し訳なかった。
ラーメンを食べた。先輩と「卒業後は二度と会わない」という話をした。彼女のネギラーメンのネギは太くて、切り方が違うのか、ネギが違うのか分からなくなった。
明日は神戸のサークルを運営する。神戸に9時集合だ。明日も早い。ハードな3日間であった。
夜は嫌な気持ちになってしまった。そして失敗した。このところ20日ほど好調だったのに。頭が冷えた。