昨日は妻と子どもらを連れて、「鈴鹿サーキット」に行ってきて疲れ


果ててきて、今日もふくらはぎがパンパンな院長の高柳です。(>_<)


もう終わってしまいましたが、たまに投稿する「お彼岸」のお話で


す。毎度毎度ながら若干のタイムラグがある投稿ですがお許しの


ほどを~σ(^_^;)



明珠は明玉と同じです。仏様のこころ(般若の智慧)を明珠に例え


ます。従いまして「明珠在掌」は、仏様のこころは私たちが生まれ


ながらに具えている事実をいいます。「般若の智慧を誰もが常に


手中に持っているのだから、他を探すのは愚である」と告げる語で


もあります。



仏様のいのちが、人間を人間たらしめてくれる。その人をその人と


して保たしめるのが、仏様のいのちであります。


その表象としての明珠が掌にあるとは、仏様のいのちは人間の内


面の深いところに埋め込まれていますが、自分の内面というあまり


の至近距離にあるためかえって気づかない愚かさの悲哀感を伴う


のです。



中国の詩、「尽日春を尋ねて西また東 茫鞋あまねし隴頭の雲 


帰り来たって梅花を拈ずれば 春は指頭にあって既に十分」は真


理をうたい上げています。この詩をわかりやすく翻訳しますと、「咲


いた咲いたについ浮かされて、春を尋ねて西また東 わらじを減ら


して帰ってみれば家じゃ梅花が笑ってた」。よく味わうと「明珠在


掌」のこころがうなづけるというものですね。



 彼岸とは、成仏を川の流れを越えることに譬えたことから来た


言葉で、生死・煩悩という不幸の根源に充ちたこの迷いの世界(娑


婆世界)を此岸とするのに対し、解脱・涅槃・成仏の境を彼岸と言


います。



浄土宗では西方浄土を彼岸とし、念仏を唱えることにより死後彼


岸に至ることができると説いています。



「お彼岸」と言われているのは彼岸会の略で、春分・秋分を挟む年


二季の七日間に行う法要をさしますが、この時だけでなく、日頃か


ら常盆・常彼岸という気持ちで私たちの振舞いによる功徳を似て、


ご先祖様の追善供養に励みたいものですね。



またしばらく私もお墓参りに行っておりませんので、行ってきたいと


思います。ご報告しないといけないこともたくさんありますからね。


子どもら連れて行ってきましょかね。(*^ー^)ノ