大切な方へ「長い間、安全でおいしい野菜とお米をありがとう」 | だから言わずにいられない。

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人も食べ物も見た目より中身のほうが遥かに大事。できる限り本物を求めることをモットーとする私が目につくことは山ほどあり、お財布の中身は減り続ける刺激的な日々です。

こんにちは。

お付き合いが33年以上にもなる無農薬有機栽培農家の直司さんが、10月19月(月)の朝、心筋梗塞で急逝しました。享年66歳でした。

 

 

私が妻の洋子さんからの訃報メールに気付いたのは、受信時刻から4時間経った23日(金)の夜9時前。電車を降りてバス停から電話したら、コロナ禍で、地元の「組」(町内会のような)の人たちが小さな葬式を速やかに執り行ってくれたとのこと。

私のような焼香に駆けつけたいお客さんには「お気持ちだけで嬉しい」と伝えているという。

30分以上電話したのは初めてでした。いつも要件のみで済ます洋子さんが、この時ばかりはものすごく饒舌でした。

 

直司さんと洋子さんは早稲田の同期生で、卒業後に大地を守る会の社員となり、20代半ばで退職し、自営農家を目指して勉強を開始。都会の人間が根を下ろすことが難しい信州で、野菜やお米の栽培を学び、最終的に落ち着いたのは、山梨県の長坂町でした。

当時、長坂町と隣の高根町辺りで、3軒の無農薬農家が出荷を始めたと聞きました。この地域での無農薬有機栽培のさきがけだったのだと思います。

 

お二人を紹介してくれたのは、私が20代後半に勤めていた編集プロダクションの同僚です。

「大学時代の山岳サークルで一緒だった人が無農薬栽培の農家をやっててもうすぐ出荷するんだけど、お客さんを募集しているの。食べてみてくれません?」と言われ、私は迷うことなく「食べたい」と応えたのです。

最初は同じアパートに住む5、6人のメンバーを集めてスタートしたのですが、野菜に泥が付いているとか、葉っぱが茶色くなっているとか、青虫や卵が付いているといった理由で、だんだん減って、数年後には私とあと一人だけ。私が引越した20年前からは、それぞれ週1の宅配便で継続しています。

 

最初の年は二股の人参があったり、キャベツの巻きが緩かったり、大根が小さかったりしましたが、味が濃くておいしくて驚きました。遠い昔、能登の祖母の畑で食べたきゅうりやトマトの味を思い出して嬉しかったものです。2年目からは、味はもちろん、見た目も立派な野菜揃いになりました。

 

出荷が始まってから数年は、野菜を食べるお客さんのほうも同年代が多かったため、子連れで農園に集まり、田植えや稲刈りをしたものです。庭でランチをしたり、夜は宴会をしたこともありました。

お二人には子どもがいないのですが、子どもの扱いは慣れていて、私のひとりっ子の息子は直司さんにすごく懐いていました。

 

農作業の繁忙期にはお手伝いの女性が来たり、農家を目指す若者が勉強に来たりしますが、従業員は雇わず二人だけです。

野菜の種まきから収穫までを洋子さんが全て把握し、畑の作業も洋子さんが仕切っています。一方、直司さんはご近所付き合いに熱心で、様々な役を担っていました。甲府など近い地域への配達は直司さんの仕事。それと稲作の担当。

 

洋子さんが毎週手書きしている『取り急ぎ失礼の野菜ニュース』に近年、直司さんが「ご隠居」と書かれていたりするくらい、稲作以外の農作業への入魂が浅いように見えた直司さんですが、私はその様子を洋子さんから聞いた瞬間、外面の良い営業マンが浮かんで笑ってしまいました。一方、洋子さんは、オールラウンドで活躍するクリエイターを想像します。

 

直司さんが亡くなってから10日。訃報から1週間、心がズーンと沈むようなショックが静かに続いていましたが、日付が変わって11月1日になり、急にブログに書いてご冥福をお祈りする気持ちになりました。

「直司さん、長い間お世話になりました。本当におつかれさまでした。ゆっくりお休みください」。

 

写真は初めて長坂に伺った時の1枚です。現在35歳の息子が2歳。友達の娘さんが6歳ぐらい。真ん中のメガネの男性が直司さんで、その隣が洋子さんです。

 

 

先週土曜の野菜便はお休みで、昨日は野菜が届きました。

来年はお米が届かなくなると思います。

洋子さんは、あちこちに小さい不調があり、腰も痛いと書いていたので、これ以上無理はしないで欲しいと願う一方で、おいしい野菜はこれからも食べたいと思う。私は、わがままな消費者かもしれません。

 

ではまた。