パーヴォのツイッターをいま拝見することができました。
日本に思いを寄せてくださっていて、
ありがたいことですね。
 
やさしいパーヴォの気持ちと、日本への愛情が
いたいほど伝わって、涙がでました。
 
東日本大震災に触れておられるので、
私もその時の思い出を
勇気をふるって、お話してみたいと思います。
もう8年もたつなんて信じられないですね。
 
私はそのころは、まだ前の夫と結婚しており、
パーヴォのことはもちろん知る由もなく、
横浜市の妙蓮寺というところに住んでいました。
 
2011年3月11日14時46分は、
ちょうど横浜駅の美容院で、
ヘアカラーをしてもらっていました。
 
なんだかずいぶん私、めまいがするなぁ・・・と
思っていたら、大震災だったのでした。
カラーをしてもらっていましたから、
髪の毛にはカラー剤がびっしり。
美容師さんも、自分たちになにがおきたのか
さっぱり把握できず・・。
 
幸い、比較的新しくできた大きなビルの中だったので、
耐震構造がしっかりしており、
特に大事にはいたらず。
ただ、場内はみな大パニックになりました。
 
私は、前の会社(東宝)で、総務部広報室にいましたので、
こういうときの防災知識は一応ありました。
大きなビルだと大体防災センターというのがあって、
そこから、災害の際は具体的に避難指示がでますので、
私はそのときは落ち着いて、
みんなに声掛けして、指示が出るのを待ちました。
 
美容師さんはその間に、わたしの髪の毛を洗ってくれまして、
(幸い断水も停電もありませんでした)
髪をドライヤーで乾かしてくれて、
私は帰宅準備をそれぞれ始めました。
 
30分ほどして、
ビルの防災センターから具体的な帰宅指示がでましたので、
とりあえず横浜駅に向かいましたが、
電車は完全にストップ。
道という道が車と人でごった返して、
大変な騒ぎになりました。
 
しかたなく、横浜駅から妙蓮寺の自宅まで
歩いて帰りました。
余震があって、怖かったですが、
みんなで励ましあいながら、進んでいきました。
 
途中の道で、喫茶店が店を開けてくれて、
徒歩帰宅する人たちにコーヒーをふるまってくれたので、
ちょっと一息つきながら、帰りました。
 
帰宅すると、マンションはおかげさまで、
なにも倒れているものはなく、無事でした。
ガスも水道も無事でした。
 
でも、怖かったのは、それからでした。
とにかくテレビもラジオもずっと地震のことばかり。
前の夫や両親に連絡をとりたくても、
電話がまったくつながらない。
メールもほとんどつながりません。
お隣の部屋の方に助けを求めたのですが、
誰もいません。
大変孤独な状況だったわけです。
 
そして、こういうときに限って、
当時患っていた病気の症状が出て、
大パニックに陥ってしまったのです。
 
一人で彼の帰りを待っていたのですが、
23時半ごろになって、ようやく夫から連絡があり、
「いま、レンタカーを借りて、会社の仲間たちを
車にのせて送ってるところだから、心配しないで寝なさい」
といわれて・・。
 
前の夫が帰宅したのは、深夜0時半すぎでした。
「道がとにかく混みすぎていて、動かないんだよ。まいったよ」
と言われて、わーん、となきました。
とにかく、無事でよかった!と
涙しました。
 
翌日は土曜日。当時通っていたクリニックの日でした。
前の夫が付き添ってくれまして、
銀座に当時あったクリニックに通ったのですが、
なにしろ街中が静まり返っていて、異様な光景でした。
 
銀座がこんなに静まり返っているのは、
初めて見ました。
カラスたちだけが、ずっとごみをあさっていて、
ぞっとする光景でした。
 
クリニックも当然、お休みでした。
しかたなく、前の夫と新橋でようやく開いていたお蕎麦屋さんで
ランチをたべて、帰宅したのを覚えています。
 
テレビはもう恐ろしくて見られませんでした。
もともとその病気でテレビはあまり見られなかった上に、
テレビは狂ったように、
東北の惨状と、津波について伝えていたので、
もう地獄絵図を見ているようでした。
 
しかたなく、ずっとベッドにもぐって、薬を飲んで
こんこんとねむっていました。
ほんとうに、悪夢のような数日間だったように思います。
 
思い出すと、トラウマのように、
凍り付いた横浜の風景と、
さむざむとした銀座の風景を思い出す私です。
 
でも、東北はもっと大変で・・。
 
あれから、東北はまったくいっていません。
正直いって、こわいんです。
ぞっとするような「冷気」が漂っているのではないかと
思うからです。
 
というのも、
1995年、阪神・淡路大震災の直後に、
前の夫と、西宮から宝塚を旅したことがあって、
その時、そのあたりだけ、ものすごい冷気が走ったんですよね。
ああ、人がたくさん死んだってこういうことなんだな・・と
気づかされた瞬間でした。
 
私は人一倍、霊感が強いので、
人がたくさん亡くなったところにいくと、
わーっといろいろな「思い」が
聞こえてくるんですね。
 
ほんとは、そういう「声」も、
ちゃんと聞けなくちゃいけないのでしょうけれど、
自分の心のバランスがどうなるのか
自信がもてなくて・・・。
 
広島に行ったのも、30代後半になってようやくです。
そのときも、広島駅に着いたら、
パーッと突然、大きくてふしぎな「ものもらい」が一瞬できて、
出張先の呉市に着いたとたんに、
その「ものもらい」が治ったんです。
 
だから、パーヴォがきょう言ってくださったみたいに、
ちゃんと3・11の時も慰霊の言葉を言うべきだったのでしょうけれど・・
 
こわくて、言えなかったです。
自分に聞こえてくる「声なき声」に
耳を傾けるのが、怖いのです。
 
でも、パーヴォがいまはこの音楽とともに、
側にいてくれるので、
勇気をふるって、鎮魂の祈りを捧げますね。
 
 
 
8年後のいま。
私は、ひとりで自活をすべく、
前の夫とも別れ、
就職をあらためて決めて、
住むところも決めて、
パーヴォへの想いを秘めながら、
ブラームス交響曲第2番やパーヴォの音楽に支えられ、
とても元気にすごしています。
 
いつか勇気をふるって、
東北に眠る、「声なき声」にも
耳を傾け、鎮魂の祈りをささげたいです・・。
勇気が、いつかできたら。
 
パーヴォ、どうかそのとき、
いっしょに来てくれるとうれしいです・・・。
パーヴォ、どうか、いつも私を助けて。
側にいて。