社会のせいにする勇気 | KPT BLOG

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「他人のせいにしてはいけない」
多くの日本人が子供のころから刷り込まれている道徳観ですが、
この道徳観じたいをそろそろ見直してもいい時期なのではないかと
最近常々思っています。

実際に多くの企業が倒産に追い込まれて、株価が下がって
失業者が増えている事実。もちろん個々のケースを具に見れば
「本人(個々の経営者)に大いに問題があるだろう」
ということもないわけではない。

商売も人生も「基本」は自己責任。しかしそれは封建体制であろうが
共産主義国家であろうが、民主主義の体制だろうが同じです。
あくまでその「基本」というのは「最終的には国や他人は個人を助けてくれない」
という現実主義的な前提に立つから成立する「基本」なのであって
せっかく、議会制民主主義や、言論の自由や労働基本権などの人権規定が
あるのにそれを活用せず「自己責任」ばかりクローズアップさせるのは
社会背景やシステムを無視した抽象論にしかならず、ピントの外れたものに
陥ります。

また儲かっている経営者・商売人というのは、傍から見ていかにも「裸一貫」
自分の力だけで勝ち取った成功だと庶民から見て思われがちですが、
多くの大企業や資本家は、国家に対して多大な「便宜」を要求した結果、
利益を得ている部分も多いわけであって、それは役員報酬や退職金に
現れている。それら国家の「便宜」は、生活苦に陥って生活保護を求めている
人たちの要求するレベルとは比べ物にならないぐらいスケールの大きいもの。
つまり「勝ってる人」も国になんでも要求しまくっているということ。

犯罪率というのは貧困率に比例するというのは世界の常識だし
犯罪が多いというのは社会のせいという面がないわけではありません。
もちろん個別の事件そのものの責任は、本人の責任としてしかるべき刑罰を
受けるべきですが、社会の責任という側面を無視して、ひたすら犯人の
個人的資質にばかり着目するような議論は今後の犯罪抑止につながらない
(個人的資質といっても社会的に形成されることもある)。議論の意味がない
ただの「叩き」にしかなりません。

今こそ「社会のせい」「社会に要求する」精神が必要とされる時代なのでは
ないでしょうか。

(帰ってきた日リベ同好会)