最近は益田市でも色々な神楽社中さんが舞われる神楽ではありますが、数年前までは、益田市の神楽社中では、久城社中さんと津田神楽社中さんしか観ることができない神楽でした。今は、三隅町の松原神楽社中さんの十羅刹女がとても有名ですね。


江戸時代中期の邑智郡~那賀郡の大元神楽の曲目の中には「十羅」の名があることから、もともと石見地方ではメジャーな曲目であったことは想像できます。

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写真は久城社中さんの「十羅」。


羅刹は仏教用語で鬼、羅刹女は鬼女という意味です。古代インドではこの羅刹女が仏法に帰依し、仏法の守護神になったという伝説があり、神仏習合の時代にあっては日ノ御碕大明神は十羅刹女の仮の姿であるという信仰があったそうです。
しかし、明治初年の神仏分離令により仏教色の強い神社が廃止される中で、神楽もまた同じように仏教色の強い曲目は演じられることが少なくなり、明治以降の台本等から削除されていました。

石見神楽では十羅刹女は須佐之男命の末娘という設定になっていますが、須佐之男命の末娘は須勢理姫で、大国主命と結婚したとあるので、これは後からとってつけた設定ではないかと思われます。

そもそもこの話しは、日ノ御碕大明神が、ムクリコクリという鬼の国王が攻めてきとのを十羅刹女と三十番神を引き連れて追い払うという筋書きであったようですが、現在では十羅刹女が、異国から船に乗って攻めてきた「彦羽根」という鬼女を退治するという内容になっています。


またこの神楽は石見地方意外にも台本が残っている神楽で、出雲、隠岐をはじめ、備後の「延宝八年神楽能本」には「十羅節女」、「ノウノ本」には「十ラセツキナツキ(十羅刹杵築)」として残っています。

日御碕神社にはこの神楽能の筋書きとなる縁起が伝わっています。
「大社町史」で井上寛司氏は応永二七年の「日御碕社造営勧進記」にあるものとし、それについて見解を示していますが、それがとても面白いものです。

この話しが鎌倉時代の猛虎襲来をもとに創作したもので、杵築大社の支配から脱却し勢力拡大をはかる日御碕神社が「応永の外寇」による緊迫した対外状況の中、海と国家の安泰を願う神社としてこの縁起を打ち出した。
またこの勧進記には足利義持の署名もあり新しい神徳を持つ神社としての地位を中央で認められた。
十五世紀末には既に祭神が須佐之男命、天照大御神になっているが、それ以前の祭神は十羅刹女であった。

とあります。

しかし、この神楽の源流がこの勧進記にあることは私も間違いないことだとは思いますが、細かい点を追求していけば「?」がつくところもあるので、今のところ判断は出来ないのが正直なところです。



さてさて、それよりも何よりもこの神楽、台本が多すぎてどれを本当とすれば良いのかが分からないのです。
今手元にあるだけで5種類。
少し違うというくらいなら良いのですが、結構違うんですよね(笑)

十羅刹女の採物が神通の弓に方便の矢だったり、天の鹿児弓に羽々矢、十束の剣だったり、地名が鰐淵山、鰐淵谷、鰐淵寺、日御碕…問答も全部バラバラ…。

鬼を殺す台本と追い返す(三葛社中をはじめ旧美濃郡地方の特徴らしく、私の社中もこれと同じ。なので、奉納舞等では道返しか十羅刹女かどちらかを舞う)内容だったり。

そのくせ神楽歌はどれも同じなもんだから意味が分からない(笑)

日御碕 御蔭や嶋は高くとも 只寄懸の沖の白浪

伊勢の国 千本の杉は四万より 日御碕なる百枝の松

千早振る 嶋つきとめて住神は 内外の海の月をこそ見れ

この三歌はどの台本にも入っている…。

この神楽はもっと調べてみると面白いかもしれません。