どうにも麻生太郎首相が「靖国に行かなかった」事が騒々しい事態を招いているようだ。
が、別に麻生首相は「中韓への配慮」で行かなかったわけではない。
少なくともこのやり取りを見れば分かると思うのだが…。
【麻生ぶら下がり】靖国参拝「政治とかマスコミの騒ぎから遠くに置かれてしかるべきもんですよ」(10日夜)
(一部抜粋)
【靖国参拝】
--朝日新聞です。15日の終戦の日に総理は靖国神社に参拝されるつもりはあるか
「靖国の話については、おたく(朝日新聞)の新聞に投稿したことがある。読んだことがありますか?」
--存じております
「じゃ、それが答えです」
--総理…(別の記者)
--15日…(朝日記者。前の記者と質問がかぶる)
「(朝日記者に対し)あなたの質問、まだ少し不満のようだから」
--いえいえ
「まだ読んでないようだから」
--(朝日記者)15日以外の日でも同様に、お考えについては…
「読んだ、あの記事を読んだ上でその質問をしておられるんですか? あれに書いてあると思いますけどね。その上で皆さんに分からせようと思って聞いておられるという風に理解する、そういうことかしら?」
「僕は靖国というものは、少なくとも国家のために尊い命を捧げた人たちを、政争の具とか、選挙の騒ぎとか、新聞のネタにするのは間違ってると思ってます。あれは、最も政治とか、そういったマスコミの騒ぎから遠くにおかれてしかるべきもんですよ。もっと静かに祈る場所だと、それが答えです」
…がどうもこれですら一部の保守・愛国者には不満なようだ。
「靖国に行かないのは売国奴だ!」
「真性保守として絶対に行かなければならない!」
「行かないのは英霊方への侮辱だ!」
一体いつから靖国は「保守確認のための踏み絵」になってしまったのであろうか?
それに麻生首相は決して靖国を無視しているのではない。
こんな話もある。
首相が靖国神社に「真榊」奉納
麻生太郎首相が靖国神社の春季例大祭(21~23日)に「内閣総理大臣 麻生太郎」名で「真榊(まさかき)」を供物として奉納したことが21日、分かった。
「真榊」はサカキの鉢植えで1基5万円。首相は昨年10月の秋季例大祭でも同じ供物を納めた。首相の事務所によると、いずれも私費で支出したという。
現職首相による真榊の奉納は、平成19年4月に安倍晋三首相(当時)が納めて以来。昭和60年8月15日には中曽根康弘首相(当時)が奉納した。福田康夫前首相は奉納しなかった。
中韓に配慮するならこういったことはしないはずだ(現に前首相の福田はしていない)。
が、こういった事実を一部の保守・愛国者は無視しているのだろうか?
恐らく無視なのだろう。
自分自身が考える靖国への考え方は我田引水で申し訳ないが、こちらのブログの方がほぼ完璧にまとめて下さっている。その考えが自分の考えとほぼ同じであったので転載させて頂く。
【転載歓迎】麻生首相の靖國参拝について考える(前編)
手紙、ファクス、メール、請願書、その他様々な活動により、麻生首相に「八月十五日の靖國参拝」を求める意志を明確に示されておられる皆様、その国を想う御気持ちと御努力に心よりの敬意を表します。国内の問題を、外国からの圧力により変じることがあってはなりません。ましてや、これは内心の問題であり、戦没者を追悼するという国家国民にとって最上位の問題でありますから、謂われ無き批判には堂々と答え、堂々と我々の意志を通すべきものです。
しかしながら、この問題をして、何らかの価値判断、その基準にしようとする一部の方々の考え方には、決して与することが出来ません。
「保守」という言葉は、人により様々に使われます。「革新」も同様です。「リベラル」に至っては、それを用いる人の数だけ定義があるようで、一体何を指している言葉なのか、その詳細は分かりません。
言葉の定義すら定まらぬ中で、「あれは保守だ」「あれは保守じゃない」「これをやれば保守だ」「これをやらないなら保守じゃない」という珍妙な「決め附け」が横行し、話を益々面倒にしております。以前の記事にも書きましたが、これを「踏絵保守」と名附けましょう。「保守派」を自認する評論家に多い、ある種の錯乱です(以下の記事に簡単な説明をしております。御一読願えればと思います)。
●「保守」とは如何なる意味か:
http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-18.html
http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-19.html
http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-20.html
彼等の多くは、自分達の奉ずる「保守の理想」に対して殉じるか否か、を相手の判断基準として強く主張し、「政治の現実」を見ようとはしません。「政治家」ではなく「評論家」なのですから、それで構わないとも云えますが、それに引き摺られて、まるで「○×式」のクイズのように、政治家に駄目出しをして悦に入る人が増えている現状は、大変憂慮すべきものだと云えるでしょう。
麻生首相就任後だけを振り返っても、「田母神更迭で麻生は保守の支持を失った」だとか、「村山談話など真の保守なら踏襲するはずがない」だとか、この種の話は幾らでも出てきます。そして今、靖國参拝が「究極の踏絵」として差し出されているわけです。
繰り返しますが、首相の参拝を求めて、活動を続けられておられる一般の方々の熱意と心情は尊敬の対象であり、毫も否定されるべき所はありません。しかしながら、首相が「ある判断」を下し、参拝を見送ったからといって、それを非難することは、適切でないと申し上げたいのです。首相が参拝されれば大変結構なことでありますが、仮に見送られたからといって、それを価値基準におかないで頂きたい。
特に本年は、衆議院選挙の公示日を数日後に控え、政権の行方が定かならぬ状況で迎えるわけです。「保守派」を自称される方で、まさか「民主党政権の誕生」を心待ちにしておられる方はいらっしゃらないでしょう。ならば今、現政権を、麻生太郎を野次り、罵倒して、一体どうなると云うのでしょうか。まさに「利敵行為」そのものではないでしょうか。
「安倍に期待していたが裏切られた、麻生はもっと駄目だった」などと大声で叫ぶ評論家諸氏は、一体政治に何を期待しているのでしょうか。政治家の発言は、その時の「政治状況」に配慮せざるを得ないことは、当然のことでしょう。これでは、「靖國参拝をしないのなら、政権を民主党にくれてやれ」と主張しているのと同じです。その結果、靖國神社そのものが廃棄され、別の国立追悼施設が作られることが明確に予想されるにも関わらず、一向にその無駄口を封じないのは、如何なる心算か全く理解出来ません。
これまで、首相の靖國参拝における「内なる敵」は、商売優先の「経団連的発想」にありました。外国からの内政干渉に対して、それを支えたのは、「商売がやりにくくなるから、首相は自重せよ」という企業からの圧力でした。ならば評論家諸氏は、こうした対応こそ批判して、「空気を変える努力」をするべきでしょう。不買運動の先頭にでも立って、「政治家に不当な圧力を掛ける企業は絶対に許さんぞ」と叫ぶべきでしょう。八月まで待たず、一年を通してこうした運動を展開し、国民與論を含めて、政治家が参拝しやすい環境を先ずは作るべきでしょう。
これらを為さずに、政治家に直接のクレームを附ける態度は間違っています。それをやれば、結果的にマスコミを敵に回すことになり、原稿が売れなくなるから、実害の少ない政治家を対象にして、パフォーマンスに興じているのではないか、という批判に答えられる評論家は、果たしてどれほどおられるのでしょうか。
また、支持率低迷に喘ぐ麻生政権の「最後の切り札」として靖國参拝を、と主張される方も散見致しますが、これも情けない話だと云わざるを得ません。これほど露骨な「靖國の政治利用」はありません。「どうせ下野するのだから、最後に一つ靖國の参拝だけは実現してくれ」などという「自称保守派」の評論家すら居ます。御自身が自暴自棄になって、周囲に当たり散らすのは結構ですが、選挙はまだ始まってすらいません。負け犬根性は願い下げです。全ての有権者の手から、用紙が投票箱の中に落ちるまで、勝負は決しません。
「靖國参拝をすれば、保守派が帰ってきて自民党に風が吹く」という主張も多く見られますが、そんなことは決してないでしょう。国民の多くは、何が保守で、何が革新なのかさえ理解しておりません。いや、理解出来ないのではなく、我が国においては、こうした対立軸でものを考えることが「普通の生活」の中ではないのです。従って、潜在する保守派が云々というのは、極端な変化を望まない多数の国民の意思が、結果として反映されることがある、というだけの話を、主義主張の結論として曲解しているのでしょう。
国民は極端な変化を好みません。それが保守だと云われれば、「そうかな」と思うだけです。しかし、何々をしたから保守だ、しないから保守ではない、真の保守とは何々だ、などという思考回路では決して物事を論じません。麻生首相の靖國参拝が実現すれば、保守派の票が大量に戻ってくる、などというのは、全くの幻想です。国民は理念ではなく、現実を生きているのです。「理念から現実へ」ではなく、「現実から理念へ」と説くことが重要なのです。
私見だが、結局「靖国へ!」と叫ぶ連中は元々国内の話に過ぎなかった靖国を勝手に中国にご注進して政治問題にしてしまった「朝日新聞」と同じ穴の狢ではないかと思っている。勝手に騒いでいるのはお前らじゃないのかと…。
で、麻生太郎が靖国を軽視していないハッキリした証拠がある。
外務大臣時代に発表した原稿であるが、上のぶら下がりでもこの主張を繰り返したに過ぎない。
是非とも読んで頂きたい。
靖国にいやさかあれ(新聞投稿)
靖国神社に遺骨や遺灰はない。あるのは近代の明暗を生きた日本人の集合記憶だけである。だがこれを失うと、日本は日本でなくなる。
靖国をめぐる論争が過熱し、英霊と遺族から魂の平安を奪って久しい。鎮魂の場という本旨へ復すべきだ。そのためには靖国を、政治から無限に遠ざけねばならない。
事は猶予を許さない。戦没者遺族の数は全国で15万人と往時の1割にも満たない。戦いに殉じた人々を悼むという本来国家が担うべき事業を一宗教法人に委ねた結果、靖国は支持基盤の衰弱とともに、その存続自体が危ぶまれる状態に陥った。
靖国は宗教法人であるから、外部の人々は変化を強要できず、靖国自らの決断抜きには何事も進まない。それを踏まえたうえで、以下靖国のいやさかと、天皇陛下のご親拝の実現を願う立場から私見を述べたい。
靖国はまず、宗教施設でなくなる必要がある。政教分離原則に照らし一抹でも疑いが残る限り、仮に他に問題がなくとも、皇族方はもとより首相や閣僚の参拝が安定しない。無理に参ると、その行為自体が靖国を政治化し、再び本旨を損ねる悪循環を招く。
この際、宗教法人・靖国神社は、設立趣旨を共有する全国52の護国神社とともに任意解散手続きをとり、別形態に移ることを呼びかけたい。
移行過程は多様であり得るが、最終的に特別立法によって靖国を「国立追悼施設靖国社(招魂社)」とする。その際、靖国神社と同じく陸海軍省所管だった日本赤十字社が、講和条約調印後、特別立法で福祉を営む平時の姿に復帰した前例が参考になる。
靖国の場合、祭式を宗教的ではなく伝統的なものとすることで、法人格の変化に実質を与える必要もあろう。元来靖国は、記紀伝承の神々を祀る本来の神社ではない。伊勢神宮以下約8万の神社を束ねる神社本庁にも属したことがない。非宗教法人化は、戦死者を祀る「東京招魂社」として生まれた創建時の趣旨に復することになる。
また設置法を論じる国会審議において、靖国非政治化という目的のため、慰霊対象者をいかにするかの点につき、合意を得るのが望ましい。ちなみにその時点で教義は既に唯一の判断基準ではなくなっている。
この過程で全国の護国神社を靖国の支部とし保全し、付設の遊就館は、行政府に管理運営を移管する。
無論、個々の変更に際し議論は百出するだろうが、そのたびに原点に立ち帰りたい。原点とは、とこしえの静寂の中、英霊と遺族に安息を図ることである。
財政基盤の確立には、国がその責任を持てばよい。今日靖国を支える崇敬奉賛会は、新法人靖国社の支持母体として存続する。また財団法人日本遺族会は、その基盤を安定させるため、公益財団法人とすべきだろう。
ここまでを整えて初めて、晴れて天皇陛下を靖国へお招きできる。英霊は、安堵の息をつくことができる。諸外国指導者にもお越しいただき、246万余の御霊を前に、近代の転変を偲んでもらいたい。
内容に関しては全面的には同意できるわけではない。が、少なくとも誰よりも天皇陛下の参拝を願っておられることはこれで分かるはずである。
こういった事実を無視して、ただ行った行かないだけを問題にして騒ぎ立てる連中には正直反吐が出る心境である。政治とは決して一つの物事からだけで判断できるほど単純なものではない。靖国問題も重要な問題の一つであることには異論は無い。が、それ以外にも問題は山積しているのだ。それらの対応を見ずに、一方的に一部の問題に関して糾弾されては政治家などやっていられなくなってしまうのでないだろうか?もし文句があるのなら言ってやりたくなる。
「じゃあお前が政治家になってやってみろ!」
P.S. 尚、上に書いた考察には中篇・後編がある。こちらも是非ご覧頂きたい。
靖國参拝考(中編):櫻井「ワンビット評論」の醜悪
靖國参拝考(後編):100万人の靖國参拝運動