政宗の運命を方向づけた最大の激戦、人取橋の戦い

  政宗、生涯の戦歴中の一 大黒星、中新田、大崎氏への攻略失敗

  劣勢の伊達軍、仙道の佐竹、芦名の連合軍に一歩もひかぬ用兵の妙

  更に大きな勝利をと若い政宗、摺上原の戦いに立ち向かう

  政宗自らの手で仙道制覇奥州最大、二百万石の大国を築く

 

畠山義継の遺児国王丸は、打倒政宗の旗印をあげ、近隣の諸大名に檄をとばした。

 

政宗の南下を恐れた佐竹氏や芦名氏は、他の諸大名らとともに3万の軍を率いて安達郡に出陣した。

 

政宗は7千の手兵でこれに対陣、人取橋を中心に激突する。

 

一時は佐竹軍に敗れかけたが、伊達成実の奇襲によって形勢逆転、ついに伊達軍は佐竹・芦名の連合軍を撃破した。

 

この激戦で政宗は鎧上に銃弾五、箭一本の傷をうけた。

 

敵方の討死961名、味方の戦死380名余。

 

この戦いを世に人取橋の戦という。

 

翌天正14年(1586)7月、畠山国王丸は政宗に降伏、二本松城の本丸に火を放ち会津へ走った。

 

二本松城の畠山氏攻略に成功した政宗は、その勢力に乗って加美郡中新田城の大崎氏を討つべく天正16年正月松山に出兵させた。

 

大崎氏は伊達運進行の報に驚き、国をあげて抵抗した。

 

伊達の本隊は大崎の本拠地、中新田城に押し寄せたが、本丸に突入することもできずかえって苦境に陥った。

 

部下の小山田筑前は深田に踏み込み戦死、残軍はかろうじて新沼城に入った。2月末にこの軍も人質を出して米沢に帰った。

 

この攻撃の失敗は、厳寒の時期に珍しく軽率な出兵をしたことが原因であった。

 

伊達勢の動きに対し隣国の大名達は警戒の色を強めてきた。

 

天正16年、芦名氏との小ぜり合があり、5月には相馬義胤が田村領に入り、更に安達郡百目木城に出張した。

 

6月には佐竹・芦名の連合軍が安積郡に侵入してきた。

 

連合軍4千に対し、伊達勢は最上、大崎、相馬との境に配置した人数を動かせないために六百人という劣勢であった。

 

郡山、窪田城に拠った伊達勢は防戦につとめたが、苦戦を強いられ、伊東重信戦死した。

 

7月の半ば、岩城常隆・石川昭光が両軍に和をすすめ7月21日両軍は陣地を撤収した。

 

これを郡山の対陣と称した。

 

天正17年(1589)、政宗は相馬氏との戦いのあと、会津進出の動きをみせた。

 

芦名義広は軍勢を率いて、耶摩郡摺上原に出陣した。

 

摺上原は猪苗代湖の北、磐梯山麓の高原地帯である。

 

当初、風下に立った伊達軍勢は苦戦を強いられていたが、風向きが転じた途端、形勢が逆転した。

 

芦名軍は総崩れとなり、義広は黒川城に逃げ込んだ。

 

伊達軍のうち討ちとった敵の首は2千5百、この死体をうづめて塚を作ったのが、世に3千塚とよばれるものである。

 

義広は政宗に追われ、白川に逃れたため、鎌倉以来の名家芦名氏はついに滅亡したのである。

 

蘆名氏を滅ぼしたあと、余勢をかって政宗は須賀川城を攻略、二階堂氏を滅亡させ、岩瀬郡を手にいれた。

 

この政宗の勢いは石川昭光、白川義親らも帰属した。

 

ここにおいて伊達領は急速にふくれあがり、西は越後境、南は白河、石川まで東は相馬境、北は大崎、最上に接することになった。

 

政宗が父輝宗に誓った、仙道制覇の夢はここにいたって、ほぼ実現出来たのである。

 

天正18年(1590)正月7日の佳例の連歌に、政宗は仙道制覇のよろこびを「七種を一葉によせてつむ根芹」と発句している